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第三十九章「紅茶と胃腸と孤高の戦士」


1


ツクヨミの食堂。昼下がりの穏やかな時間、コウタはトレイにハンバーグを乗せて席に着いた。向かいにはユズハがすでに座っていて、今日も元気にスプーンを握っている。少し遅れてアイリが紅茶のカップを手に合流した。三杯目だ。少なくともコウタが見ている限り、彼女は朝からずっと紅茶を飲み続けている。


「少尉、少しよろしいでしょうか」


「なんですの、改まって」


「ふっ……少尉は毎日、かなりの量の紅茶を召し上がっておられますな」


「ええ。紅茶は私のライフラインですから」


「それは結構なことです。しかし」


コウタは真剣な眼差しでアイリを見つめ、優雅に一礼してから口を開いた。


「アイリさん。紅茶をそれだけお飲みになって、お腹は緩くなりませんか」


食堂の空気が凍りついた。ユズハがスプーンを落とし、近くのテーブルで食事をしていた整備兵たちが一斉に会話を止める。アイリは紅茶のカップを口元で止めたまま、ゆっくりとコウタに視線を向けた。その目は笑っていない。だが彼女はカップを静かに置き、口元に完璧な微笑みを浮かべた。


「あら。お気遣いありがとうございやがります」


コウタの微笑が一瞬で消えた。ユズハが息を呑む。アイリの口調は丁寧そのものだったが、語尾に込められた冷気は食堂の室温を数度下げたように感じられた。


「ふ、ふっ……少尉、今なんと——」


「ですから、ご親切に痛み入りますと申し上げたんですわ。胃腸ですって? よくもまあ、乙女に向かってそんな言葉をペラペラと。その神経、後でじっくり拝見させていただきますわね」


アイリはそう言い残し、紅茶のカップを手に優雅に立ち上がった。一歩、二歩と去りかけて、ぴたりと足を止める。


「ああ、それと、わたくし、先ほど艦長と約束がありまして、あなたもご一緒していただけますわね。格納庫で、あとで。必ずですわよ」


振り返った彼女の笑顔は、これ以上なく美しく、そしてこれ以上なく恐ろしかった。


2


第三格納庫。スサノオの足元で、コウタは正座していた。ユズハがそんな彼の様子を心配そうに見つめている。


「コウタくん、ほんとに悪気なかったんだよね?」


「ふっ……私は孤高の戦士。ただ純粋に少尉の健康を——」


「黙りなさいこの雑魚」


声がして、アイリが姿を現した。手には新しい紅茶のポットとカップが三つ。彼女はそれを床に置き、ゆっくりとコウタの正面に腰を下ろした。


「艦長、紅茶をお淹れしましたわ。どうぞ」


「あ、ありがとう、アイリちゃん……」


ユズハがおそるおそるカップを受け取る。アイリはにっこりと微笑み、自分のカップを手に取った。そして一口含み、静かに置く。空気が張り詰めた。


「さて、コウタ。あなた、さきほど食堂で仰いましたわね。私のお腹が緩いのではないか、と」


「ふっ……あれは言葉の綾で——」


「いいえ、言葉の綾ではありませんわ。あなたは確かに、公衆の面前で私の胃腸を案じた。それはつまり、私の体調を常に気にかけているということ。私の一挙手一投足に目を配り、私の健康を誰よりも気遣っている。そういうことですわね?」


「ふっ……まあ、そうなりますか」


「では質問を変えますわ」


アイリは紅茶のカップを置き、コウタの目をじっと見据えた。その瞳は冷たく澄み、口元には完璧な微笑みが浮かんでいる。


「なぜ、あなたは私のお腹をそこまで心配するんですの?」


コウタは一瞬言葉に詰まった。ユズハが固唾を呑んで見守る中、アイリは小首を傾げ、まるで純粋な疑問のように続けた。


「普通、他人の胃腸の心配などしませんわ。健康診断の結果を共有する間柄でもなければ、ましてや乙女に向かって『お腹が緩い』などと言うのは、ただの無礼ですわ。でも、あなたは違った。つまり、あなたは私に対して特別な感情をお持ちだからこそ、あのような無礼が飛び出した。違いますか?」


「ふ、ふっ……それは——」


「違うと仰るなら、それでも結構ですわ。ただし」


アイリは微笑みを深めた。


「その場合、あなたは理由もなく乙女の尊厳を傷つけたことになりますわね。私が今から副長にセクハラで報告しても、文句は言えませんわね」


「ふっ……!?」


「さあ、選んでくださいませ。あなたは私に特別な感情があるからあの発言をしたのか。それとも、ただのセクハラなのか。どちらですの?」


コウタの顔から汗が流れ落ちる。ユズハは口を押さえ、完全に傍観者モードだ。格納庫の隅では整備兵たちが「何が始まるんだ?」と遠巻きに見守っている。逃げ場はなかった。


コウタは深く息を吸い込み、そして腹をくくった。


「ふっ……私は星野コウタ。孤高の戦士。真実を語らぬは戦士の恥」


彼は立ち上がり、スサノオに向かって優雅に一礼した。それから振り返り、格納庫中に響き渡る声で宣言する。


「私は——アイリ少尉のことが、好きです! 胃腸の心配は、その気持ちの表れに他なりません!」


格納庫が静まり返った。整備兵たちが口笛を吹く。ユズハが拍手をした。


アイリはゆっくりと紅茶を一口含み、満足げにうなずいた。


「ふむ。よろしい。では、ついでに艦長のことも言っておきなさい」


「ふっ……もちろんです。私は星野コウタ。ユズハ艦長のことも、大好きです!」


「きゃー! コウタくんがみんなの前で言ったー!」


ユズハが飛び上がって喜ぶ中、アイリはゆっくりと紅茶のカップを置いた。その顔には、すべてを予定通りに進めた者の余裕——そして、まだ何かが残っていることを示唆する、ほんの僅かな冷たさが浮かんでいる。


彼女は立ち上がると、拍手に沸く格納庫の空気を一変させるように、わざとらしく深いため息をついた。


「……あらあら」


その声に、ユズハの拍手が止まった。コウタの微笑も凍りつく。格納庫中の視線がアイリに集中する。彼女はまるで舞台の主演女優のように、ゆっくりと周囲を見渡してから口を開いた。


「あらあらあら。殿方が、よりによって複数の異性に同時に告白だなんて。汚らわしい」


場が静まり返った。


「ふ、ふっ……少尉、それは——」


「今、あなたは私に『好きです』と仰った。その直後に艦長にも『大好きです』と仰った。わたくし、この耳で確かに聞きましたわ。しかも公衆の面前で堂々と。一人の殿方が二人の女性を同時に口説く。それを汚らわしいと言わずして、なんと言うんですの?」


コウタは完全に固まった。ユズハも口をパクパクさせている。アイリはゆっくりとコウタの周りを歩きながら、さらに言葉を重ねた。


「私の胃腸を心配するほどの愛情を持ちながら、艦長には『大好き』ですって? ああ、なるほど。胃腸への気遣いと、艦長への愛情は別物だと。恋多き戦士は胃袋も複数お持ちでいらっしゃるのね」


「ふっ……いや、その、論理の飛躍が——」


「どこがですの。あなたが今ここで、私たち二人に向かって愛の言葉を投げた。それは事実ですわ。そして、私たち二人はそれを同時に聞いた。これがどういう状況か、おわかりになりまして?」


アイリは足を止め、コウタのすぐ目の前に立った。そしてにっこりと微笑んで、とどめを刺した。


「さあ、星野コウタ。今すぐ決めてくださいませ。わたくしと艦長、どちらが一番なんですの?」


格納庫の空気が、これまでにない緊張に包まれた。ユズハがはっと息を呑み、アイリを見る。アイリは微塵も動じず、ただコウタだけを見つめている。


「ちょ、ちょっとアイリちゃん、それは——」


「艦長は黙っていてくださいませ。これはわたくしと、この節操なしの殿方の問題です」


ユズハが口を閉じる。コウタは二人の顔を交互に見つめ、天を仰いだ。格納庫の隅では、整備兵たちが「どうする星野」「ここで間違えたら終わりだぞ」と囁き合っている。


彼は深く息を吸い込み、静かに目を閉じた。それからゆっくりと目を開け、背筋を伸ばし——気取った微笑を浮かべた。


「ふっ……私は星野コウタ。孤高の戦士」


「はい、それはもう聞きました」


「お二人とも、私の女神です。優劣など、つけられません」


「……は?」


「少尉の紅茶を愛する姿も、艦長の無邪気な笑顔も、私にとっては等しく尊い。胃腸の心配をするのも、大好きと伝えるのも、すべては私のロマンの表れ。どちらか一人を選ぶなど、私の辞書にその文字はありません」


アイリはしばらく無言でコウタを見つめていた。その顔からは表情が抜け落ち、何かを考えているのか、それとも何も考えていないのか、読み取れない。ユズハが不安そうに二人を見守る中、彼女はかすかに息を吐いた。


「……よろしい」


コウタの肩から力が抜ける。


「今回はその言葉で妥協して差し上げませんわ。フン」


「ふっ……え?」


アイリの動きは素早かった。一歩で間合いを詰め、コウタの胴に飛びつくと、そのまま両足を絡めて頭からマットに叩きつける。轟音が格納庫に響き渡った。見事なフランケンシュタイナーである。


「ぐはっ……!」


コウタの体が床に沈む。ユズハが「あっ」と声を上げ、整備兵たちが固唾を呑んで見守る中、アイリは乱れた髪を直しながら立ち上がった。


「ふん。優劣などつけられません、ですって? そうやってまた二人を同時に口説く。その節操のなさが胃腸に現れているんですわ」


コウタは仰向けに倒れたまま、天井を見上げていた。その顔にはなぜか、満ち足りた微笑みが浮かんでいる。


「ふっ……これが、天国か」


彼はそう言い残し、静かに目を閉じた。


ユズハが慌てて駆け寄り、ぺちぺちと彼の頬を叩く。


「コウタくん! 死んじゃダメだよ! まだユズハのこと大好きって言ってくれたばかりなのに!」


「ふっ……ご心配なく。私は不死身です」


「死にかけてる人が言う台詞じゃないよ!」


アイリは新しい紅茶を淹れ直し、一口含んで静かに微笑んだ。


「……まあ、これでチャラですわ。胃腸の心配をされたことと、二股をかけたこと。綺麗さっぱり相殺です」


「ふっ……少尉のフランケンシュタイナー、以前より磨きがかかっていますな」


「当然ですわ。乙女の尊厳を守るために日々鍛錬していますから」


ユズハがくすくすと笑い、倒れたコウタの手を引っ張り起こす。格納庫の隅では整備兵たちが「星野、生きてるか?」と笑いをかみ殺していた。


スサノオの足元で、今日も三人の賑やかな夜が更けていく。右腕の斬魂刀は、青白い光を静かに放ちながら、そんな三人を見守っていた。


「……ところで少尉」


「なんですの」


「ふっ……今夜はまだまだ終わらなくてよ、ですかな」


「ええ、もちろん。あなたのロマンとやらを、朝までたっぷり聞かせていただきますわ。胃腸のことも含めて」


「ふっ……覚悟はできています。私ですから」


「その台詞、何度聞いたかわかりませんわ」


三人は顔を見合わせ、小さく笑った。スサノオの斬魂刀が、一際強く青白く輝く。それはまるで、三人の絆を祝福するかのようだった。


第三十九章 了


『彗星の指揮官は今日も無茶を言う』 続く

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