チャプター 16:「綻び」
空を天井のように覆う灰色の雲の下、エディとハルは二次試験の長距離偵察飛行を行っ
ていた。万が一の事を考え、国境付近までは飛行した事のなかった二人は、ロベリアに接
近する事は初めての体験であり、緊張も大きい。
試験の内容である国境偵察は航空隊の主任務であり、領空の防衛において最も重要な行
動の一つ。常に隣国へ睨みを利かせる事で、何度も他国の戦闘機を追い払っていた。
緊張からか、エディは口を開かず、また前方のハルも測位盤の操作と周囲の警戒を続け
ている。その理由は、聞くまでもなく理解していた。
機体の船体内部に装備されている機関砲は、二次試験時に実弾へと変更されていた。離
れた場所に護衛の友軍機が飛んでいるものの、敵と遭遇した場合は最低限合流までの時間
を耐えなければならない。発砲する事態は最も避けねばならない事ではあるが、残念なが
らその可能性は零ではない。
あまりに会話の少ない空気に痺れを切らせたのはエディだった。
「ハル、大丈夫か」
測位盤で現在位置を確認していたハルが、僅かに後方へ目を向ける。
「僕は大丈夫。大丈夫だよ」
大丈夫だと話すハルは、声が震えていた。
「大丈夫か。そう、そうだよな。大丈夫だ」
不安を感じる相棒が、更に悲しい目にあわないよう、自分も祈るように唱える。
しかし、無常にも願いが女神に届く事はなかった。
「あれは…………」
国境に向かっていた二人の前に、黒い点のようなものが映る。それは確かに飛行してお
り、鳥にしてはあまりに大きく、速かった。
前部座席に収まるハルが、測位盤へマナを通す。そして、浮かび上がった文字列を確認
すると、門へ頭を近づけた。
「機関室へ! 敵機と遭遇! 座標W36、数1!」
『すぐに僚機を向かわせる! そこは既に国境の内側だ! 可能ならば撃墜しろ!』
「りょ、了解!」
交信終了後、ハルは不安を漂わせた瞳でエディへ振り返る。
それ故に、相棒の不安を少しでも柔らげる為大げさに笑み、ハルの頭へ手を置く。
「大丈夫だ! 行くぞ!」
一部始終を聞いていたエディが、敵機へ向けて加速してゆく。それはみるみる大きくな
り、十分に視界に捉えた瞬間、敵の機関砲が火を吹いた。
間一髪で弾丸の雨を回避したエディは、敵機をかすめ、直後、急旋回の後、跡を追う。
四速、五速と順に変則し、プロペラが金切り声のような悲鳴を上げながら、二人の戦闘機
は電光石火の早業で敵機の後方へ食いついた。
旋回の動作を見せるが、それが開始させる前にエディが後方へついたため必死に振り払
おうと左右に揺さぶりをかける敵機。対して、十分に訓練を行い、空軍最高のパイロット
二人と戦闘したエディにとって、それはまるで意味を成さない行動に等しい。
ハルの様子をうかがう余裕すらあったエディは、相棒へちらりと目を向ける。そこには
旋回時に生じる高重力の中、微動だにせず前方を見ているハルの姿が映る。表情までは読
み取る事ができなかったが、門がしっかりと接続されている事から実戦でも乱れはないと
判断し、戦闘を継続するエディ。
「…………終わりだ!」
機首に取り付けられた十字に敵機を捉えた瞬間、操縦桿の引き金を躊躇なく引き絞り、
駆動部から動力供給を受けた機関砲が咆哮する。重い実弾は、模擬弾より遥かに強烈な音
を発し、発砲の振動が機体を伝わった。
放たれた黄金色の光の矢はいとも容易くに敵機を貫き、船体、主翼、尾翼を食い破って
行く。
「あ…………あ、ああ、あああああ!」
敵機から零れ落ちる機体の残骸。そして、何かが二人の右端を飛び去った後にハルの様
子が急変する。奇妙な呻き声を発したかと思うと、マナを供給していた左手が膝の上に落
ち、門の機能が停止した。突然の切断により門を通っていた動力軸も切断され、提供され
ていた動力は完全になくなる。
「おいハル! しっかりしろ!」
自分の気がつかない場所に負傷したのではないかと不安になり、呼びかけながら失速し
はじめた機体を必死に操縦するエディ。動力が消失した事により油圧の補助もなくなり、
両手で懸命に機首を上げ、仰角を維持する。
目に付いた国交用の街道を目掛け強行着陸を行い、フラップとランディングギアのブレ
ーキを使いきり、辛うじて着陸に成功する。国境付近で街道が整備されていた事で、二人
は九死に一生を得た。
後方に座るエディは、機体が完全停止した事を確認すると、安堵のため息をついた。
かけていたベルトを外し、ハルの様子をうかがう。
「ハル…………お前」
震えるハルのゴーグルを取ると、溜まっていた涙が幾本の筋を描き、顎へと零れ落ちる。
目は充血し、耳を澄ませば息すら震えている。
「一体どうしちまったんだ。どこか怪我でもしたのか?」
ハルは焦点の合わない双眸で虚空を眺め、力なく首を振る。
「それならどうして――」
「腕が」
震え声で話し始めたハルに、言いかけた言葉を飲み込む。初夏の生暖かい風が、船体と
キャノピー撫でていった。
「撃たれた戦闘機の部品が壊れて、ばらばらになって…………その中に、手袋をした手が
混ざってた。血の玉が沢山出て――」
「――もうやめろ!」
ようやく原因を理解したエディは、手早くベルトを外し、背中からハルの頭を抱きしめ
る。誤魔化すようで卑怯な行為であると理解しつつも、彼女には他に方法が思い浮かばな
かった。
「ハル、堪えてくれ。やらなければあたし達がやられてたかもしれないんだ。こればかり
は仕方がない」
エディの一言に、涙を溜めたハルが弾かれたように振り向き、エディの腕を振り払うと、
鋭い目で睨めつけた。
「仕方がない筈がない! あれに乗っていたパイロットだって機関師だって! きっと家
族が居たんだ!」
ハルの起こした癇癪に、エディは咄嗟に怒鳴り返した。
「そんな事は当たり前だ! ここは戦場なんだ。あたしも、あいつらも! 殺しあう為に
来たんだ」
怒鳴りつけ、茫然としたハルの姿に、エディは我に返る。自分のヘルムを取ると、潰れ
た髪を両手で梳く。
「ああ、その……悪かったよ。言い過ぎた」
どのように言葉を掛ければ気持ちを落ち着けてくれるのか、エディは必死に思案した。
しかし、感情的になったハルの姿を初めて見た事もあり、思うように言葉が出てこない。
幾度も口を開いては、その言葉が本当に正しいのか不安になり、結局何も言えないまま
時間が過ぎて行く。
エディが迷っているうちに、ハルは両手で涙を拭き、遠慮がちにエディを見上げる。
「そう、だよね。エディの言うとおりだよね。ごめんなさい」
エディは、ハルの頭が良い事をこれ程恨めしいと感じたことはなかった。優しさと思慮
深さを併せ持ち、敵の家族の気持ちすら考える事ができる少年。そして、自分を困らせぬ
よう、湧き上がった感情を抑えられるだけの心の強さ。
だからこそ、それ以上の言葉は無用だと知り、ハルのヘルムを取り、優しく、何度も髪
を梳いた。
それは十分な鎮静効果を発揮したのか、ハルの震えも抑えられ、呼吸も落ち着いてきた。
十分に気持ちが落ち着いたと判断し、腹に抱えたハルのヘルムをもう一度被せる。
「先ずは、帰ろう。ここは危険だ。旦那や皆も心配しているだろう。先ずは、切れたシャ
フトを抜こうか」
「うん」
門の停止による動力軸の切断も訓練の内容に入っていた為、二人の判断と行動は素早い。
機体に備えられた専用の工具を用い、重量のある金属の棒を引き抜く。
機体が無傷であった事が幸いし、門へ手をかざすと問題なく空間が開かれた。
数瞬後、円盤から飛び出してきた動力軸がフライホイールへ差し込まれ、小気味良い振
動と共に機体は再び活動を始めた。
『ハル、エディ、大丈夫か?』
円盤から聞こえてきたキースの声に、ハルは深呼吸を行う。
「ハル・エリオット、エディ・シャムロック共に無事です。戦闘を行った敵機は…………
撃墜しました」
『了解した。一度接続が切れているようだが、無事で安心したぜ。詳しい状況は帰還後に
聞こう。自力で帰れるのか?』
「はい。街道から離陸後、アルストロメリア空軍基地へ帰還します」
『了解。国境の警備に一小隊向かわせたから、背中は気にせず帰って来い』
返事を返し、キースが門から離れていく音が聞こえた後、ハルが振り向いた。
「行こう」
「ああ」
機体の車輪を器用に操作し、街道に真っ直ぐ向き直ったエディは、ペダル操作と共にレ
バーを一速へ押し込み、機体を加速させていく。
「やっぱり…………間に合わないのかもな」
未整地の街道をいなしながら無事に離陸する戦闘機。空へ飛び出し、風きり音でまとも
に声が聞こえない中、エディは未来への不安を呟いていた。




