第5話:10:00 禁断の双璧
東京、首相官邸地下。
国家安全保障会議(NSC)の場には、重苦しい沈黙が漂っていた。
「たいげい型潜水艦による雷撃で、敵揚陸艦一隻の撃沈を確認。しかし、中国艦隊の規模は依然として強大です。対潜哨戒網が強化され、これ以上の通常型潜水艦による単独接近は、自殺行為に等しい状況です」
防衛相の悲壮な報告に対し、閣僚たちは一様に顔をしかめた。台湾への敵部隊上陸はもはや避けられない。さらに、先島諸島への侵攻も時間の問題であった。
通常動力型潜水艦は静粛性に優れるが、速力と潜航時間には限界がある。広大な海域を高速で制圧する原子力潜水艦のような運用は不可能だった。
その時、腕を組んで目を閉じていた首相が、静かに口を開いた。
「やまと、および、むさしの抜錨を許可する」
その一言に、官房長官をはじめとする数名の閣僚が弾かれたように顔を上げ、息を呑んだ。
「総理! それはいくらなんでも早計です。あれは公式には日本に存在しないはずの艦ですぞ!」
「もし使用したことが公になれば、防衛費の極秘流用どころか、国内法を根底から覆すことになります。内閣は間違いなく吹き飛びます。歴史的な大スキャンダルになります!」
閣僚たちの狼狽も無理はなかった。
やまと型潜水艦。一番艦やまと、二番艦むさし。
それは、国内世論の猛反発を避けるため、数兆円に上る特別会計を極秘裏に分散・偽装し、長年かけて建造された日本国の最高機密兵器だった。
その最大の特長は、次世代型小型反応炉と大容量リチウムイオン蓄電池を組み合わせたハイブリッド推進システムにある。通常動力艦の究極の静粛性と、原子力潜水艦の無限に等しい潜航時間および高速連続航行能力を完全に両立させていた。広大な居住空間による乗員の疲労軽減、最新の電子戦能力、そして垂直発射システム(VLS)から放たれる圧倒的な対地・対艦攻撃能力に至るまで、間違いなく世界最高峰の性能を誇る深海のモンスターであった。
「歴史的スキャンダルだと?」
首相は鋭い眼光で、反対する閣僚たちを睨みつけた。
「沖縄の基地は灰燼に帰し、自衛隊員たちが今この瞬間も絶望的な空と海で血を流している。数時間後には、与那国島や石垣島の島民の頭上に中国軍の空挺部隊が降ってくるのだ。国が亡びようとしている時に、内閣の保身など下らないにも程がある」
首相の凄まじい気迫に、会議室は水を打ったように静まり返った。
「超法規的措置の責任は、すべて私が負う。防衛相、統合作戦司令部へ直ちに伝達しろ。第1独立潜水隊群、やまと、むさしに出撃命令。敵の揚陸艦隊中枢、および護衛艦隊を海の藻屑にしろ」
「……了解いたしました」
防衛相が深く頷き、ホットラインの受話器を取った。
同時刻、海図に存在しない極秘の地下ドック。
重厚な隔壁がゆっくりと開き、二隻の漆黒の巨大な船体が、音もなく太平洋の冷たい海水へと滑り出していった。
原潜に匹敵する巨体でありながら、海に溶け込むかのように一切の航走音を発しない。日本が誇る禁忌の双璧が、ついにその封印を解かれた瞬間だった。
彼らの目標はただ一つ。台湾海峡を埋め尽くす中国大艦隊の完全な殲滅である。
海中からの逆襲の刃が、戦局を大きく揺るがそうとしていた。
残された時間は、あと38時間。




