079 満足する母
「————るのだーーーーっ!」
急に目の前の光景が変化した。
儂はディウネドに捕まれ、地面を見下ろす高さにいたはずだ。だが今は雪の地表に立っている。周りにいたはずのディウネドとピスティルの姿も見えない。
「な……なんでオレ、寝ているんだ?」
儂のそばで、頭を振りながらゼナロリスが体を起こした。アルビオーネは、ああ、変わらず固まっているな。
【絶氷】
エンデルムートの秘術。周囲の時の流れを限りなくゼロにする術だ。
動きの止められた儂らは、エンデルムートによってこの場所へ移動させられたのだろう。
単に麻痺させられたというのならば意識はある。だが、この術は時の流れに干渉する。意識の間隙で行われるため、その過程を認識することはできない。ゆえに、突然周囲の状況が変わったように思えるというわけだ。
知っていなければ理解すらできない恐ろしい術だ。そして、知っていたとしても対処できる者などまずいないだろう。発動させた時点で勝敗は決してしまう。
「そ、そうだ。アイソスは——」
くっ、遠い。どれだけの間、術が継続していたのかわからんが、アイソスとエンデルムートは半壊した建物の向こうにいた。立ちつくすアイソスの姿が見える。その足元に横たわる白い体も。
「アイソスっ! アイソスーーーーっ!」
雪の地面が素足に響く。いや、気にしている場合ではない。
走る儂の体が浮いた。ゼナロリスが追いつき、儂を抱えてくれた。
「何が起きたんだ、グリム殿」
「後だ、ゼナ。このままアイソスの元へ急ぐのだっ!」
「アイソスっ! 大丈夫か! 何をされたっ!」
「あ、グリムちゃん」
ぼんやりと足元を見つめていたアイソスが気づいてくれた。問いかけたものの、アイソスもまた事態を理解することなどできまい。首を傾げて呟く。
「えっとね、なんだかね、お腹がぬるぬるするの」
「あ!? なんだとぉぉっ!!」
エンデルムートめがっ、何をしてくれたんだっ。
「おい、エンデっ! 貴様、一体何を——ぉをぅ!?」
エンデルムートが喘いでいた。潰れたカエルのように突っ伏したまま、だらしなくも舌を垂らし、白磁のような美しき鱗を涎で濡らしている。瞳を閉じたままで、儂の存在などまるで気づいていないようだ。
「きっきちゃまぁぁーーーーっ! 何をしたっ! アイソスに何をしたのだぁぁぁぁーーーーーーーーっっ!」
殴ってやるっ。幼女の拳の方が傷ついてしまうが、殴らずにはいられんわっ。
「おい、起きんかぁっ! この屑がっ! 動けん相手を襲うなど、それが貴様のやり方かぁぁっ!」
「あ……ふぅ…………だめ……。だめ、なの……」
「なにがダメだっ! ダメなのはきしゃまの方だぁぁっ!」
「せっかくの、機会、なのに……ああ……【絶氷】状態では……反応、してくれないの……。私が、動くだけで……。ああ、でも……でも……、よかったの……よ……」
「愚か者がぁぁっっ!」
こ、コイツはっ。独りで完結しおってからにっ。言うだけ言って、事切れたようにがくりと頭を傾けおった。
「おい、アイソスっ! 湖へ行け。行ってその身体洗ってくるのだっ! 隅々までなぁっ! ゼナ、お前もついて行けっ! 綺麗に落としてくるのだぁぁっ!」
コイツのモノなど、一滴たりとも残すでないっ。汚らわしいわ。
「うん、行ってくるね。エンデちゃんもなんだか疲れちゃったのかな」
「寝かせておけばいい。後で儂も行くからな。湖で待っているのだぞ」
「わかった。じゃあお魚もまた獲っておくね。行こ、ゼナちゃん」
「おおっ、それはいい。今度はもっと獲るぞ、アイソス」
「うん。わたし、頑張るよっ」
……ふぅ。行ったか。
後はエンデルムートだ。どうしてくれよう。
それにしても、幸せそうに眠りおって。ふん、まるで儂と遊んだ後の幼女ではないか。だからといって、コイツがアイソスにしたことは許せるものではないが。
聖幼女の杖さえあれば、思い切り殴ってやるものを。あれは勇者と戦った時に奪われたままだ。アルビオーネに伝えたときにはひどく怒られた。深刻なダメージを背中側の腰の下あたりに負ったのだ。思い出したくもない。
どうしたものかと眺めていると、ふとエンデルムートの短い角が目に入った。大理石のように白く、鋭利な先端を持つ角。その先端に手を添えると、ひんやりとした感触が伝わってくる。
コイツとコネクトしたら——。
ばかな、ありえん。コネクトはアイソスとだからこそなのだ。幼女でもない奴とコネクトしてどうする。それに、あれは儂の身体であるから操ることができるのだ。自身の魔力回路を把握しているゆえの、魔力による操作だ。
待てよ。
ならば、だ。相手の魔力回路を把握すればいいのだな。そうかっ。そうだなっ。幼女の魔力回路。今後は把握せねばなるまい。儂と共に過ごすことになった幼女に対して、その魔力回路を解析するのだ。
さすれば、くくっ、儂はどんな幼女ともコネクトできるだろう。楽しみだ。ああ、これは良い。心弾むではないかっ。
「ふ、ふはっ、くははははっ。良いぞっ。素晴らしい目標ができたわっ。くふははははははははっ」
「——ん……んん……? なんですか、その耳障りな笑い声は」
「……はっ。目覚めたのか、エンデ」
「ええ。とても心地良き時間でした。満足です」
垂らした舌を納めて、エンデルムートは大きく息をついた。
「満足、だと」
その言葉、聞き捨てならんな。コイツはどこまで身勝手な奴なのだ。掴んだままの角を動かして——ああ、びくともしなかったが——その動きで、ようやくエンデルムートの瞳は儂を映した。
「あれは儂ではない。アイソスという幼女だ」
「……そんなことはわかっています。四天王たちから聞いていますから。アナタの精神が、その人間の内にあることも知っています。言ったでしょう。アナタを離さないためだと。それでも、心満たされたのです」
「知ってなお、満足か。儂でもない仮初めの存在が相手だというのにな。ふん、随分と安っぽい満足だな」
エンデルムートの角を掴んだまま、奴の瞳を覗き込んでやった。
「なんですって」
怒気をはらんだ言葉と頭を振る動きに、儂の手は簡単に引き剥がされてしまう。エンデルムートは寝そべったまま姿勢を正し、首をもたげ、逆に儂を見下ろしてきた。
「儂はな、幼女が好きなのだ」
「……? 何を今更。そんなことは痛いほど身に染みています」
いいや。コイツはわかっていないな。儂は胸を反らし、若干嘲りを含んだような水色を睨み返してやった。
「儂は幼女が好きだ。大好きだ。幼女たちがそばにいるだけで心躍る。幼女たちを見ているだけで癒される。菓子を頬張る福々とした頬からは目が離せん。一輪の花を愛でる視線には吸い寄せられる。初めは怖れ、すぐに遠慮なく儂に触れてくる手には蕩けさせられる。差し出された手は、そこに込められた想いは、儂の心を惹きつける。ああ! ああっ! 儂は幼女が好きだっ! 大好きだっ! 儂の周りを駆け回る姿は、儂にも元気を与えてくれる。内に秘めた魔素は、溶岩の如く我が魔素を沸き立たせる。小さな身体で懸命にしがみつかれると、この鱗など何の防御にもならない。幼女の笑顔! 儂を貫く幼女の微笑みっ! たとえ不機嫌に俯いても、悲しみに涙溢しても、それは幼女だ。幼女なのだっ。幼女の全てを包み込みたい。そうだっ! 大好きなのだっ! 幼女と触れ合いたい。撫でていたい。この手で、尻尾で、翼で、舌で感じたい。この腹の下で雛鳥のように温めたい。仔犬のように舐めまわしたい。ある種の魚のように口の中で育てたい。幼女っ! ひとつになりたいっ! 溶け合いたいっ! 身体も、心も、魔素も。儂の存在全てが、幼女という至高の存在を欲しているのだっ! ゆえにっ!」
思考よりも先に言葉が口をついて出てくる。当然だ。これが湧き上がる想いというものなのだ。ただ、これ以上は息が続かなかっただけ。一旦大きく深呼吸して、呆然としている白竜に続けてやった。
「——ゆえに、エンデルムートよ。儂は認識しているのだ。あれは幼女だと。儂のこの心は、感覚は、かの黒竜を幼女アイソスだとしか捉えていない。翻って、お前はどうだ? 聞いている? 知っているだと? それがなんだというのだ。お前自身は、本当にあれを儂だと認識しているのか? この幼女を儂だと認識できるのか?」
息が上がってしまい、再び呼吸を整える。そのまま口を閉ざし、ただ睨みつける。
エンデルムートも言葉を発しない。儂の視線を受け止め、固まったように睨み返してくるだけだ。
引かん。儂から引くものか。
睨みつけるうちに、湖の中にある黒い闇がわずかに揺らいだ。しかし、それもごく短い時間だけで鎮まる。
静寂が冷たい廃墟を包んでいる。エンデルムートも凍りついたように何も発しない。聞こえるのは抑えきれない自身の呼吸音だけ。沈黙が引き延ばされる。
もう随分と長い間、儂らは睨み合っている。
それでも儂は、譲れんのだ。




