078 反抗する娘
そうだ、アイソスだ。
儂もそれどころではなかったのだが、雪も止んだ。エンデルムートから早く引き離さねば。
そう思っていたのだが、息子のディウネドに握られたまま見た光景に、少しだけ安堵できた。アイソスとエンデルムートは、すでに十分に離れて向かい合っていたのだ。まあ、コトが全て終わってしまった後なの——
ああああああああああーーーーっ! 違う! そんなはずがない。そんなことは許さん! 許さんぞっ!
「かあちゃん! 見てくれよっ、ほら、これが——」
「黙りなさいっ!」
息子の呼びかけにちらりとも目を向けず、エンデルムートは言い放った。その勢いにディウネドは、キュウ、と喉を鳴らしただけで押し黙ってしまった。母親の視線の先にはアイソスが——だけではないな。アイソスの傍に寄り添うように、小柄な黒竜がいるではないか。
「どうしてですか、母上! 私だっていいじゃないですか!」
怯むことなく黒竜が叫ぶ。アイソスと並んでいるとその体躯の違いはまるで親子だ。いや、まあ……本当に親子なのだろうがな。そういえば生まれたのは二頭だったと記憶している。
「ダメに決まっているでしょう! そのひとは私の大切な存在なのです。そして、あなたの父親なのですよ、ピスティル」
うぉぉ……。
だろうな。聞きたくなかった。ピスティル、か。そんな名だったな。その若竜を貶めるわけではないが、彼女の存在は儂とエンデルムートとの繋がりを象徴しているようで、目を背けたくなる。子供、といえば、今儂を握り締めているディウネドも同じではあるが。
「だからなんだというのですか。こんな強大な力を感じさせる雄を、こんなに魅力的な竜を放っておくことなんてっ。できるはずがありません! それに! 父上ですって!」
「ええ、そうよ。私の伴侶です。私だけのグリムワルドなのですっ!」
「母上はずるいですっ!」
おお、やるなピスティルとやら。エンデルムートに一歩も引いていない——などど感心している場合ではないな。つまりは、コイツもそれほどに儂を、アイソスを狙っているということではないかっ。
「何を言うのですか。私が私の夫を独占するのは当然のこと」
「独占ですって? いつも父上の愚痴ばかり言っていたではないですか。そんな母上が珍しく上機嫌で出かけていくものだから、何かと思って追いかけてみたら、結界の中で楽しんでいるなんて!」
「追いかけて……? あなた、そんなことを——」
「気づいていなかったのですね。それほどに浮かれていたのね。ええ、ええ、わかりました。母上はこうなることを危惧して、普段から父上の悪口ばかり言っていたのですね」
「……っ何をっ!」
押されているなエンデルムート。しかし、確かにその言葉、信じられん。儂に激怒し、儂の大切なものを奪った奴が? いや、そうか。独占したいとは即ち、儂を支配したいだけなのだな。
「そうでしょう? だって、父上も私のように若い雌の方が好きに決まっていますから。ねえ、あなた」
「なんですってぇぇぇぇーーーーーーーーっ!」
これ見よがしにピスティルがアイソスに身体を密着させた。頭をアイソスに擦りつけながら、母を見下すように目を細めている。
……見るに耐えん。
こんな醜聞はうんざりだ。アイソスも戸惑っているではないか。
「あのね、わたしはグリムちゃんじゃないの。アイソスっていうのよ」
「いいの。あなたの存在全てからすれば、些細なことですから。私はね、今のあなたに惹かれているの。ねぇ、私のことはスティって呼んで」
「スティ、ちゃん?」
「ええ」
「スティちゃん、ちっちゃくてかわいいね」
きゅぅぅぅぅぅぅんっ。
「くっ。何をしておるかっ。おい、でーねど! コイツらをなんとかせんかっ!」
「え、オレ? 無理だよ。かあちゃんとピスティルを止めるなんて。オレには幼女がいればいいんだ。お前が一緒にいればいいんだよぉ〜」
「オレは? オレも幼女だぞっ」
「もちろん、お前もさっ」
くっ、コイツら……。幼女に囚われおって。ゼナロリスまで満更でもない様子ではないか。先程は儂の幼女だと言っていたというのに。
「ねえ、スティちゃんも遊びたいんだよね。じゃあ、みんなで一緒に遊ぼうよ」
「ああ、優しいのね。でも母上とは遊んだでしょう? ですから今度は私と二人きりで、ええ、私の秘密の場所で遊びましょう? ね。さあ、行きましょう」
「やめんかきちゃまぁぁぁぁぁーーーーーっ!」
「待ちなさいぃぃぃぃぃぃぃぃーーーーーっ!」
もう我慢できんっ。だが、エンデルムートの叫びで儂の声がかき消されてしまった。
「そんなことは、この私が許しません! そうでしょう。だって私とあんなに愛し合ったのですからっ」
「それは私を知らなかったからよ。ねえ、これから私を知って。味わって。そうしたら母上よりもずっとイイってわかるわ」
「ピスティルぅぅっ!!」
エンデルムートが姿勢を低く構えた。両手を獣のように雪面につけ、長い首を引く。緩く開いた口元から、白霧の冷気が漏れる。ピスティルも同じ構えだ。ただしコイツは片手でアイソスの体に触れたまま。
「あ、あのね。ケンカはだめだよ」
「う、うきゅぅぅんっ」
アイソスがピスティルの頭を撫でた。妙な声が漏れている。それでもエンデルムートから視線を外していない。
「エンデちゃんもだよ。ね、みんなで仲良く遊ぼ」
「私はっ、私だけがアナタと……。娘となど、そんなの、そんなの……」
「ねっ」
アイソスが戸惑うエンデルムートに近づいてゆく。心配しているような、嗜めるような表情だ。儂に向けられることもある、姉としての顔。それは、儂だけに向けられるべきものだ。
アイソスの優しさは身にしみる。だからこそ、儂に一番に向けて欲しいのだ。儂はそれ以上のものをお前に与えよう。だから、儂にっ!
「アイソスっ、アイソスーーーーっ!」
「あ、グリムちゃん。グリムちゃんだ〜」
わずかな静寂を機に、思い切り手を振って叫んだのが功を奏した。やっと気づいてくれた。とても久しぶりに思える、儂への笑顔。冷えた全身に温もりが広がってゆくようだ。
「ぐ、グリムワルド……?」
「ねえ、グリムちゃんもその竜と遊んでいたの? 私もね、エンデちゃんと遊んだの。とっても楽しくって気持ちよかったんだよ」
嬉しい。嬉しいのだが、聞けん。何をやっていたかなど。
「あ、ああ。それわよかったな……」
「うんっ。でもね、ケンカしてるの。だめだよね」
「私は、だって……だって——て、へっ? グリムワルドっ、アナタいつからっ」
「貴様の息子が呼んだだろうが」
儂の知らぬしおらしさを見せていたエンデルムートが、猛然と首を振った。コイツ、本当に儂や息子など眼中になかったのだな。
「かあちゃん、見てよ! 見てよこの幼女。すんごいんだ」
「は? ディウネドっ!?」
「これが幼女なんだ。かあちゃんが隠していた幼女なんだよ。ああ幼女! うん幼女! これがオレの世界だぉ。俺たち竜なんてすごくもなんともない。幼女こそが全て、オレを温めてくれる、神以上の『幼女』なんだよぉぉっ!」
素晴らしい。幼女愛に溢れているではないか。さすが期待の新竜だ。なぜその表明に顔をしかめるのだ、エンデルムートは。貴様の息子が世界の真実に気づいたというのに。
「ぐ、ぐ、ぐ、グリムワルドーーーーーーーーっ!!」
あ? なぜ儂?
「よき息子ではないか。よかったな、エンデ」
「な、なんてことをアナタはーーーーっ! だから私はこんな——いいいいっ!?」
ん、どうした? どこを見ている?
「ねえ、向こうはお取り込み中よ。今のうちに私たちだけで」
「え、でもね」
「大丈夫。みんなで遊ぶのは後で」
ピスティルがアイソスを引き寄せ、首を絡ませていた。触れ合わんばかりに口元を寄せ、ささやきとは言えぬほどに荒い息を漏らしている。
「だって母上とだけ楽しんだでしょう。だから次は私とだけで、ね。もう我慢できないの。母上とはまた後でいいでしょう? そうよ、後でいいの。後で。後で、後であとであとであとであとであとであとでずうぅぅ〜〜〜〜〜〜〜っとあとでねぇぇ〜〜〜〜っ!」
怖っ。
まごうことなきエンデルムートの娘だ。アイソスがチラリと視線だけを向けてきた。そうだ、コイツからも離さなければ。
「ピスティルぅぅっ! いい加減にしなさいっ!」
「ふふっ、無理ですよぉ、母上」
「幼女の方がずっといいのになぁ、な、オレの幼女たちっ」
「そうだぞっ、幼女は最高なんだっ」
「ディウネドっ! あなたはそれを離しなさいっ!」
「ええ〜っ、無理だよぅ。手が離れないんだ。幼女吸いつくんだよぉ」
「ああっ、私もっ、彼から離れられないのっ。こうしているだけで気持ちいいのっ」
「そうだっ、すっげぇ気持ちいいんだぉ幼女」
「ああ、あなたぁ」
「ようじょぉぉ」
「くっ……。く、く、く、くがぁぁぁぁーーーーーーーーっ!!」
突如、エンデルムートが空に咆哮を放った。知性なき獣の如き叫びに、子供たちの動きが止まる。
またあの雪嵐を呼ぶ気か。
——いや、これは違う。
豪磊な咆哮が振幅を狭めはじめている。腹の内に響くような低音は絞られ、頭の中を貫くような高音へと変調する。内包する力が、空間を切り裂くのではないかと思われるほどに高まっている。
この響き、知っている。
リ、リ、リィィィィィィ————。
鈴の音のような微細な振動に空気が張り詰める。皮膚がひりつく。この急激な温度低下。間違いない。
マズいっ。これはエンデルムートの。
「アイソス! 飛べ! すぐにここから離れ————




