077 覚醒する息子
……………………あ。
………………あ…………く、ぁ…………
…………あ…………ぅ…………
……ふぅ……
…………
……
……………………もういい。
ふわあああああああああぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜ん!!
雪に顔を擦りつけ、握った拳で雪を殴りつけてもおさまらん。なぜ儂が……なぜ儂がぁぁっ!
くううううううううぅぅっ。
うぅ……。
完全に力が抜けた。大切なものも抜け出てしまったみたいだ。もう……もういいのだ。このまま雪に埋もれてしまいたい。このまま何も感じずに——
「——って、冷たいわぁぁっ!」
ただでさえ寒いのだっ。こんな雪の上に寝転んでなどいられるかっ。
跳ね起きたものの、ブーツまで脱がされているせいで立っていることでさえ辛い。湿ったコートも脱いでしまいたいが、それは流石にできん。内側が冷たいのだが。
しかし、幸いなことに雪も風もほとんどおさまっているようだ。ゼナロリスがあの露出女を抑えてくれたおかげだな。
兎の耳を振り回すと、頭に積もった雪が幼女の形に窪んだ雪の上に落ちてきた。む。そういえば、この型を使えば幼女の雪像ができるのでは。
待て。そうではない。いつの間に? 儂のそばに白鱗がたたずんでいるではないか。
ま、マズいっ、これはっ。
「あ……、え、エンデっ? 違うっ。これは、儂はっ」
いや違う。彼女ではなかった。儂を覗き込んでいるのはエンデルムートとは別の白竜だ。
随分と小柄な奴だ。エンデルムートの半分程度しかない。というかまだ若竜だな。鱗の輝き具合からその浅い歳月が見て取れる。だが幼女ではない。
「何者だ? エンデルムートの同族か?」
竜の喉が鳴った。驚きを含んだ響きだ。それとともに、鋭い鉤爪を備えた指先が迫ってくる。ゆっくりとしたその動きからは脅威を感じられない。微かに震えているしな。
「グリム殿っ!」
儂に触れる寸前、それを遮るようにゼナロリスが飛び込んできた。儂を背に隠し、竜と対面する。
「……ちぇっ」
舌打ちが聞こえ、竜の動きは止まった。
「なんだよ、お前」
「オレはゼナロリス。グリムワルド様の第一幼女だっ!」
「幼女…………?」
瞬きをしながら竜が頭を下げた。ゼナロリスの威嚇の唸りに動じることもなく顔を近づけ、獲物を見定めるようにじっと儂らを凝視していた。
そのまま竜は動かない。ただその縦長の瞳孔だけを丸く開き、絞り、せわしなく動かしている。それに合わせてコイツの息遣いが少しずつ荒くなってきている。
ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァァッ……
「なんだこれ? ハァッ、なんだこれは……?」
ん? コイツ、何か様子が変だ。
「グリム殿、危険だっ!」
「いや待て、ゼナ。コイツはもしや」
今にも喰いつかれそう——とも見えるかもしれん。だが、この反応は違う。儂にはわかる。ゆえに、そっと手を伸ばし、生温かな息を漏らす鼻先に触れてやった。
「ふぉぉんぐぅぅっっ!」
その瞬間、妙な叫びを上げて竜がのけぞった。ああ、やはりな。
「な、何をしたんだ、グリム殿!?」
「見ていればわかる。儂に任せろ——いや、お前にもできるか」
ふっ、良いではないか。儂は嬉しいぞ。
「あ……ハァッ。なんだこれっ。苦しいっ、乱れるっ、俺の胸が、精神がっ」
「ふふっ、わからぬか、竜よ。ならばもう一度来るのだ」
「もう一度……」
何かを払い除けるように頭を振ると、竜は怪訝そうに儂を見下ろしてきた。戸惑いと好奇が、水面のような瞳に浮かんでは揺れている。
「さあ」
両腕を広げてやると、竜は初めて仔犬を見たときの幼女のように、じわじわと首を下ろす。それを儂は聖幼女の笑みで待ち受ける。待って、待って、待って、至近まで焦らして——体全体で竜の顔を抱きしめてやった。
「——っ!? 〜〜〜〜っんんんっ!!」
「ふふっ。どうだ? 言葉にならんか? それでいい。まずは感じるのだ。幼女を」
そうだ。コイツは目覚めた。いや、目覚めつつある、と言った方が正確か。ならば導いてやらねばな。
「ふぁぁっ、なんだよぉ、これっ。こんなっ、こんなのっ」
「苦しいか? 鼓動が激しく高鳴っているな。それでいい。それで正常なのだ。最初は少し刺激が強すぎるがな」
「刺激……ハァッ、これがっ、だけど、これ、わかんねえけど、ハァッ、いい……。すげえドキドキする……。初めて狩りをしたときよりも、かあちゃんに初めて褒められたときよりも、ずっと、ずっと、気持ちがっ」
「そうだろう。お前が今感じているその想い、それは素晴らしいものなのだ。……んしょっ」
「ふぉおっ!?」
竜の上顎によじ登る。正直、足が冷たくて限界なのだ。それに、これでコイツもより感じることができるだろう。
そのまま竜の顔の上を這い進み、寝起きの幼女のように彷徨う瞳のすぐそばに手を這わせた。軽く叩いてやると、焦点の定まらなかった視線が儂をとらえる。それに合わせて儂は首を傾げ、
「これが幼女だ」
穏やかに、アイソスがするかのごとく囁いてやった。少しぎこちなかったかもしれんが、目覚めたばかりのコイツには十分だったようだな。震えておるわ。
「う、うう、うおぉぉぉぉぉぉーーーーーーっ!」
「ふひゃぁぁっ!」
くぁっ? 儂の体が中を舞っている? 振り払われたっ?
ぼすっ。
く……また雪の中に……。コイツが急に頭を振り上げたせいで、跳ね飛ばされたというわけか。くそっ、いかに興奮状態とはいえ、幼女にこの扱いはいかん。きっちりと教育してやらねば。
「ゼナっ。ゼナーーっ! 早く助けるのだっ!」
「おおっ! 大丈夫か、グリムど————」
ん? 何を止まっている? 早く雪の中から引き起こしてくれ。半ば埋まってしまっているのだぞ。
「これはっ、これは褒美なのかっ!?」
「ふぇっ?」
「そうなんだな、グリム殿っ。ならば遠慮なくっ!」
え……ひいっ! 儂の足っ。
そっ、そうか、ズボンも下着も脱がされていたのだ。雪原兎のコートがめくれて、儂の足が露わになって、それでゼナはっ。
「いいぞっ、はふっはふっ、素晴らしいっ、ほふっ、褒美だっ。冷たいが、ふぅっ、オレがっ、オレがぁぁっ」
「いひゃぁぁっ! ちがっ、これはっ、そうでは、こんなことをしている場合ではっ」
「いいっ、幼女だからなっ。オレは幼女でっ、グリム殿も幼女でっ! だからっ!」
「ひぃぃぃぃぃぃっ!」
止まらんっ。気色悪いっ。ゼナの舌は暖かくて、少しだけ気持ちいのだがっ。くそっ、アルビオーネめっ。何をしているのだ。早く儂の下着を——。
あ。あいつ、また寒さに固まっているな。雪が止んだとはいえ、冷気は早々に逃げん。いやそれよりも。
「ゼナっ、ぜなぁぁぁぁっ。やめるのだっ。これは、変になるのだっ。これわぁぁっ」
「グリム殿っ、グリム殿っ、グリム殿の生足ぃーーーーっ!」
ウオォォォォォォーーーーーーッ!!
なんだっ? この咆哮はっ?
いつの間にか竜が覆いかぶさっていた。これまで以上に荒い息遣いに、鋭い眼光。涎まで垂らしながら、儂らを逃さぬとでもいうように両手で雪をつかんでいた。
「なんだこの、ハァッ、なんだこのいきものはっ。ほしいっ。もっとそばに、ハァッ、フフゥゥッ、オレのものにしたいぞぉっ」
「う……、早まるな。お前のその気持ち、正しい。だがな、幼女の扱いがなっていない」
「扱い? オレは欲しいだけだ……フゥッ、フゥッ……獲物? 宝石? 金塊? そんなもの比較にならない。オレのものにするんだっ。この、この——」
「幼女だ」
「幼女? あ——ああっ! そうかっ!」
竜が突然頭を上げた。あらぬ方向を見つめ、恨みを吐き出すように咆哮を轟かせる。そして再び儂に鼻先を突きつけてきた。
「これが幼女! かあちゃんが禁じていた幼女かっ。そうか、だからなんだな、かあちゃん! かあちゃんは隠していたんだ! こんな素晴らしいものを、隠していたんだなっ!」
「かあちゃん? お前、もしやエンデルムートの子か?」
「なんでだ、かあちゃん。どうして教えてくれなかったんだよぉ」
まあ、気持ちは分からなくもない。納得はできんがな。ただの奴の私怨だ。コイツがエンデルムートの子だというなら尚更だな。
「ちくしょう、幼女。ああっ、幼女。フゥゥッ、なんなんだよぉぉ」
「知りたいか? ならば、己に素直になることだ。その感情を、想いをぶつけるのだ。ただし。優しく、穏やかに、だ」
「オレの、この感情……? この燃えるような、でもふわふわして、クラクラするような想い。なんと言えばいいんだ? おい、お前。幼女ってなんなんだよっ」
幼女とは、か。それは難解な問いだな。だが、迷える若者には道を示さねばなるまい。それはそれとして、ゼナロリスはいつまで儂の足を舐めているのだっ。
「お前、名はなんという?」
「名前? オレはディウネドだ。名前なんていいっ。それよりも幼女だっ」
「で、でぃ……でう……。デーネドっ! デーネドだな、うむ」
なんか違うが、まあいい。そういえばそんな名だったな。
「よく聞け、デーネド。幼女とは——それは原初の輝き。とこしえの熱。理の起点。生命の源」
「? なんだそれ?」
「言い表し方は様々だ。だが、どれも正確ではない。足りぬのだ。強いて言えば『それ無くしては世界が成り立たない存在』だ」
「世界が……。それじゃあ、まるで神のような——。けど、オレをこんなに惑わせるなんて、そんなのは」
はっ、と悟ったような神妙な表情を見せた。確認するように視線を儂に向けてきた。涎が儂の顔のそばに垂れる。
だが、違うな。
「神か。確かにそれも近い概念だろう。しかし、そうだな。結局のところ『幼女とは、幼女』としか言えぬものだ」
「幼女とは……幼女?」
「そうだ。今はまだ難しく考えるな。お前は目覚めたばかりだ。幼女を知り、お前の世界は今、誕生したのだ。ゆえに、お前は、お前自身の幼女を探せ。さすればお前と幼女の世界は輝きに満ちるだろう」
「……う、お……ぉ……」
オオオオオオオオーーーーーーーーッ!
若竜が覚醒の咆哮をあげた。うむ、よい響きだ。これは将来が楽しみで——
んぐっ!?
儂の身体がっ? 竜の手に握られている!? なぜだ? 儂の足に夢中だったゼナロリスと一緒に、いつの間にかこの竜に捕まえられているっ。
「オレの幼女! それならっ、お前がオレの幼女だっ! オレの、オレのぉぉぉぉっ、幼女にするぅぅぅぅぅぅっ!」
「ちょ、待てっ。儂はっ」
「ダメだっ。ああ、幼女っ。幼女すごいぞっ。こんなに、オレ、最高だよぉぉぉぉぉぉっ!」
雪が舞っている。バシバシと雪面を叩いて雪を舞いあげているのは、コイツの尻尾だ。抑えきれんのだろう。
「フゥッ、フゥゥゥッ。幼女! 幼女ォォォォッ!」
「くっ、やめんか。そんなに激しく頬擦りするなっ。幼女は柔いのだぞっ」
「あっ、こっちの幼女もいいっ。あったかくて、ふわふわだぁ」
「幼女? そう、オレは幼女だっ。けど、グリムワルド様のための幼女だからな。お前のなどではないっ」
「いやだっ。幼女はオレのだっ。オレがもらうんだっ」
ぬおっ。儂らを握ったまま拳を振り回すなっ。これでは、コイツの方が駄々をこねる幼女ではないかっ。
「お、おいっ。気をつけろっ。幼女はな、もっと丁寧に——そう、『若葉に積もる雪の如く』だっ! 幼女を失うぞっ」
「あっ、そうだ! かあちゃんに言わないとな! こんないいものを隠していたなんて、文句を言ってやるっ!」
くっ、儂の言葉が全く届いていない。くそっ、気持ちはわかるがっ、わかりすぎるのだがっ。
「かあちゃ〜ん! 幼女だ! これが幼女なんだ〜〜〜〜っ!」
儂らを握り締めたまま、覚醒した若竜ディウネドは歓喜の叫びをあげてエンデルムートへと駆け寄っていった。




