073 雪中の獣たち
「ぬわぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜っ!」
転がるっ。転がっているっ!? 儂の体がっ!
雪がっ、コートの隙間からっ、目、回って——。
「ふぴゅぁぅぅっ!」
と、止まった……。灰色の空が見える。それに儂のブーツも。吹き荒れる雪が上を向いた尻を冷やす。
く……なんと情けない姿だ。雪に覆われていたため痛みはそれほど無いが、儂の体は半ば雪に埋もれているではないかっ。
「おおっ、楽しそうだなっ!」
「そんなわけあるかっ! 起こせ、ゼナっ!」
同じ雪まみれながら上機嫌のゼナロリスが、軽々と儂の体を雪から引きあげた。たっぷりとまとわりついた雪を払う。
前方に目を向けると、儂が転がった跡なのだろう、溝のように雪がえぐれていた。それもすぐに新たな雪が埋めてゆく。今や儂の足首の上あたりまで雪は積もっていた。
「ダメだぞグリム殿。一人で楽しんでは。オレと遊ぼう! なんだか心躍るんだ! 一緒に雪にまみれよう!」
「愚か者がっ、貴様はなにをして——くちゅんっ!」
いかんっ。ダメだ、この寒さは。体が思うように動かん。平地だというのにまるで雪山だ。コートがあってもこれでは体が保たん。早くなんとかせねば。
「ん、ちょっと寒いね〜。大丈夫、エンデちゃん?」
「ええ。私は平気よ」
風に混じってかすかに会話が聞こえてくる。横殴りの暴雪のせいでアイソスとエンデルムートの姿がよく見えん。その手前にいるアルビオーネの夕焼け色の毛糸だけが、わずかに識別できるくらいだ。
「グリムワルド達も雪で遊んでいるようですし、私たちも遊びましょう」
「うん。なにして遊ぶの?」
「そうね、とっても体があったまる遊びよ。アナタもきっと気に入るわ」
「ほんと? じゃあ、やろう、エンデちゃん」
「ふふっ、そうね」
な、な……。
「させるかぁぁっ! ゼナっ、アイソスを連れて来いっ! アリュ、お前もだ。ここから離れるぞ!」
「いいのかっ。行くぞっ、オレ、行くぞっ!」
「行けっ! 早くアイソスを奴から救い出すのだっ。アリュ、お前も——アリュ?」
興奮して駆け出すゼナロリスと対照的に、アルビオーネはその場から動かない。というか身じろぎひとつしていないような。
重くなったブーツで雪を踏み締めて近づき身体に触れるが、なんの反応もない。
「? おい、アリュ?」
「……り……で……」
「あ? どうしたアリュ——ぬわぁぁっ!?」
コイツ、固まっているではないかっ。
顔以外は毛糸の服に包まれているが、その顔に生気が全く感じられん。無表情が仮面のように貼りついている。震えることすらせずに、ただ前を見たままで、瞬きすらしていない。
身体のほうもそうだ。儂の兎のコートですら耐え難い寒さを感じるのだ。寒さが苦手と言っていたコイツの蛇身は、冬眠状態になったかのように動かない。
「どうしたアルビオーネ。情けないぞっ! こんなに心地いいのに、なにをしているっ」
「あ、まあ、ゼナ。もういい。お前だけで行ってくれ」
流石にこれは無理だろう。できれば先に避難させてやりたいが、それよりもアイソスだ。
「では、お先だっ! グリム殿もついてくるんだっ!」
いや、行かんからな。というか儂も動けん。今も寒さで震えが止まらんのだ。兎耳のフードを深く被ってアルビオーネの影にしゃがみ込む。少しでもこの暴雪から身を隠さねば。
「行かせないっ!」
そんな声が聞こえたかと思うと、走りかけたゼナロリスが飛び退いた。獣幼女のいた辺りに氷柱のようなものが突き刺さっていた。
高揚から一転、ゼナロリスが緊張し姿勢を落とす。ゆっくりと後退し儂らのそばに体を寄せてくる。
「コイツらを足止めだと? 足止めでいいのか?」
別の声が唸りを伴って響いた。
「犬ころに子兎、それに——ん? んん? んんんんんん————ああ。人面虫か」
ぶっ。
言い得て妙。伺うようにアルビオーネを見上げると、彼女は怒りもせずに硬直したままだ。まあ、顔の筋肉さえも動かせないのだろう。ふっ、こんな状況だというのに笑えるではない——
ひぃっ。
瞳が動いたっ!? 眼球だけを動かして儂を睨んでいるっ。まずいっ。雪の寒さとは別種の寒気がっ。
「なんだ、お前ら。どこから現れた?」
アルビオーネの姿を正確に表現した声の方へ、ゼナロリスは顔だけを向けた。
その先、吹雪から滲み出たかのように佇んでいたのは、一頭の獣だった。白と、より淡い白の縞模様を持つ、雪山奥深くに住むはずの氷雪の獣。その身体は、本来の姿のゼナロリスの四、五倍はあるだろう。
「こんな奴ら、まとめて仕留めた方が早えだろ?」
「そうねぇ。でも、その子兎だけはダメよ。エンデルムート様のものだから」
「そうかい。なら、他はいいんだな」
獣は舌舐めずりしながら白い息を吐いた。コイツら、エンデルムートの部下か。こんな奴らまで用意しておいたというのか? 儂を止めるために? なんたる執念深さだ。
「いいけど、あなただけでやってよね。私の術じゃあ誤爆しそうだし」
「問題ねえな。オレだけで十分だ」
姿の見えぬ相手との会話を打ち切って、獣が儂らを睨みつける。その前にはゼナロリスが立ちはだかった。暴風も寒さもものともせずに、その紅の獣毛を靡かせている。
「なんだ、やる気か仔犬?」
「仔犬ではないっ。幼女だっ! オレはゼナロリス。偉大なグリムワルド様の第一幼女だっ!」
「ふん。俺の名はゴウラ。高貴なるエンデルムート様の獣者だ」
獣が小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。その体躯、太い四肢、獲物を射すくめる琥珀色の瞳。それにこの極低温の世界に適応した毛皮。確かにエンデルムートの麾下にふさわしい魔獣なのだろう。
だが、知性が足りんのか? エンデルムートが高貴だと? 儂を無理矢理モノにしようとするような奴が? 冗談ではない。
「ゼナっ! 頼むぞっ!」
「おおっ! オレが、幼女のオレが負けるわけないっ! それに、今のオレはとても気分がいいんだっ!」
「やってみな、仔犬」
ゼナロリスと獣が、共にわずかに腰を落とし重心を下げた。獲物に飛びかかる寸前の姿勢だ。獣の唸りが徐々に小さくなり、風にかき消されてゆく。対照的に、ゼナロリスの熱が高まる。
ソレが見えたわけではないが、紅の幼女の背中が、興奮した心のままに熱を発散しているように感じたのだ。灰色の世界の紅一点。頼もしい。さすが我が幼女。
息を飲むような緊張感が漂っている。互いに動くきっかけを探っているのだろう。暴風が巻き上げる雪か、呼吸の乱れか、集中のわずかな緩みか。いずれにしろ、些細な場の乱れがこの均衡を崩すはずだ。
体を抱えて震えながら、儂もまた獣から目が離せないでいた。
不意に、風が弱まった。
飛ばされないよう力を込めていた儂の体が、反動で傾く。二頭の獣も同様なのだろう。儂よりもはるかに小さな乱れが生じたように見えた。
——動くか。
暴風が復活した。弱まっていたのは短時間。静寂ののち、再び生じた冷気の濁流に押されるように生じた変化は——
「あっ、ああっ、いいっ! すごいぃぃぃぃっ!!」
だっ、黙れ、エンデルムートぉぉぉぉっっ!!




