055 地竜、迫る
峡谷の地上には地竜と呼ばれる魔物がいた。そいつがアイソスの尾を咥え引きずり下ろしていた。彼女は体を横倒しにされ、なかばお腹を空に向けている。そこへ地竜が覆いかぶさっていた。
「アイソスっ! 大丈夫かっ!」
「う、うん。でも、離してくれないの」
「なんだとぉぉっ」
攻撃を受けているわけではないのか?
だが、この地竜は巨体だ。がっしりとした太い四肢でアイソスを押さえつけている。首も尾も短いが重厚だ。翼もないが、その背には鍾乳石の如き突起がそびえ立っている。ここから見ると、その全身はまるで岩石の塊だ。
そんな地竜の姿がアイソスと重なっている。彼女を押しつぶさんばかりに、しきりに頭部を振っていた。
「や、やだぁ。くすぐったいよぉ」
「なっ、なにをしておるっ?」
「だめっ、だめだよ。そんなに舐めないでよぉ」
「んきちゃまああぁぁーーーーーーっ!」
儂のアイソスになにをしているっ。そうだアイソス、突き放せ! そんな地竜程度、お前の力なら軽いものだろうっ!
「ごめんね、ちょっと離れて————ひゃぁっ!?」
か、噛んだ!? 払い除けるアイソスの指を? 噛んだのかっ!
くそっ、ここからではよく見えん。
「アイソスっ。アイソスぅぅっ!」
「へーきよ。痛くないの」
甘噛みだとぉぉっ! 儂もアイソスにされたいっ——ではない。コイツは、この地竜は、なんてことをぉぉっ!
「グリム様、あいつです! あいつが洞窟で私たちを襲った地竜です」
「どうでもいいわっ。アイソス、早くそいつを振りほどくのだっ!」
困ったような視線をアイソスは向けてきた。頷いて、視線を落とす。
「ごめんね。はなしてほしいの。ねえ、あなたも一緒にあそぶ?」
アイソスが優しく語りかけているというのに、地竜は咥えた指を離さない。捉えた竜をじっと見つめ返すのみだ。アイソスと視線を交わすなど、地竜如きがおこがましいわっ。
「ね?」
「……」
「おねがい」
くっ。じっとしていられん。もう一方の手で地竜の頭を撫でるアイソスの優しさが、儂にまで伝わってくるというのに。
「ね、おねがいだから」
「……ぐぅ」
不満の唸りと共に、地竜はようやくアイソスを解放した。そのまま後退し、彼女を押さえつけていた前脚を地につける。アイソスに背を向けた。
そうだ、とっとと去れ。洞窟に篭って、アイソスと触れ合えた幸運を生涯噛み締めていろっ。
「えっ!?」
体を起こしたアイソスが動きを止めた。
……あ?
「えっ、えっ? どうしたの?」
背を向けた地竜が、困惑するアイソスに向かってそのまま後退してきた。彼女のお腹に地竜の尻尾の先が触れると、短い尾は空に向かって掲げられた。そうして尻全体をアイソスに擦りつけている。
「なっ、なにをしておるだぁぁーーーーーーっっ!!」
コイツはっ、コイツわぁぁっ!
「ああ、求愛行動ね」
「冷静に言うなっ! ぴーちゃん! やめさせろっ!」
「はぁ、問題ないでしょう? 竜同士なのですから」
「問題あるわぁぁっ! やめさせろっ! やめさせろやめさせろやめさせろぉぉぉぉっ!!」
「ですから」
「黙れっ! ならばっ」
敷き詰められた柔らかな葉と小枝を踏み潰しながら、巣の奥に向かって走った。相手をしてもらえず、うとうととしていたぴーちゃん八世に飛び込む。
「ぴゅぃ……ぴっ!」
寝ぼけたように短く鳴いたぴーちゃん八世はすぐに覚醒して元気な声をあげた。儂に輝く瞳を向けてくる。
それに応え、ぴーちゃんの腰に頬を擦りつけてやった。
「ならば、儂も同じことをするぞっ、ぴーちゃん八世にっ」
「……なにを馬鹿なことを」
「儂にできないと思うかっ! 元の姿に戻ればすぐだ。やるぞ、ぴーちゃん八世。九世は目の前だっ」
「ぴっ!」
儂の勢いそのままに、ぴーちゃんが応えてくれる。
「いいぞ、ぴーちゃん。儂を受け入れてくれたのだな」
「ぴぴぃっ!」
「そうだ! お前はもう儂のものだからなっ。それでい——ぃたぁぁっ!」
ぬあっ? また頭がっ!?
「いい加減にしてください、グリム様っ!」
「また貴様かぁぁっ! この儂の頭を気安く叩きおってぇぇ!」
「す、すいません。ですが、あまりにも、その、あさまし——いえ、みっとも——ではなく、その……ええと……ダメですよ」
コイツ、一切反省していないなっ。形だけ頭を下げおって。まるでアルビオーネを思い出させる奴だ。
「はぁ……わかりました、グリムワルド。ですから、一旦レンピロードから離れなさい」
「お、おお。いいぞぴーちゃん。さすがは儂の選んだぴーちゃんだ」
呆れたような物言いが気にかかるが、まあいい。さっさとあの不届きな岩トカゲを追い払ってくれればいい。
「よし、行くのだぴーちゃん。八世は儂と一緒にいような」
「だから離れていなさいっ!」
そう言い残してぴーちゃんは飛び立った。大気を引き裂くような鋭い啼き声をあげると、周囲の巣から一斉にグリフォンの群れが姿を見せる。
すり鉢のように岩場に囲まれたこの峡谷の空を、猛禽猛獣の王たちが埋め尽くした。その最高度にぴーちゃんは位置取って啼き声を響かせる。それに一団が続く。まるで合唱だ。
もちろん、ただの囀りではない。それはグリフォンたちにとっての詠唱だ。群れが一体となって生む魔術。
術は大気を操る。ここは風を留めやすい地形。流路は螺旋を描き、鋭利な烈風が生み出される。
アイソスの皮翼が靡いた。不思議そうに見つめる彼女の目の前で、旋風は竜巻へと発達した。一転その端部は小さく絞られる。
到達点は強固な岩の装甲を持つ地竜の背。
「いけっ! やってしまえ、ぴーちゃん!」
儂の声に応え、術が放たれた。襲いかかる竜巻は、傍らのアイソスに被害を及ぼさないほどに極小に周を絞られ、それに反して遥か上空まで大気を渦巻かせている。集積した大気の力が岩盤のような地竜の背びれを抉り、その破片を撒き散らした。
グギィィィィィィーーーーッ!
地竜は体を起こそうと野太い咆哮をあげた。だが遅い。ぴーちゃんたちはすでに次の歌を囀っている。
「もう一度だっ! 不逞の輩に鉄槌をぉぉぉっっ!」
グリフォンの巣から身を乗り出して叫ぶ。地竜は巨体をよろめかせている。アイソスからもわずかに離れた。いいぞっ、十分効いている。
「アイソスっ! 今だ! 今のうちに離れ————あ!?」
なんだ? なにをしている、アイソス? なぜお前は地竜に覆いかぶさっているのだっ!?
「だめぇぇーーーーっ!!」
アイソスの悲鳴が、鳥獣の合唱を打ち消してしまった。




