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038 墜落

 竜の背中が傾いた。羽ばたきが止まり、長い首が力なく垂れ下がる。逆に儂の身体は浮遊感に襲われた。


 アイソスっ。


 目覚めないのか!? 眠らされていただけではないのか? このままでは諸共——。


 掌から鱗の先端が抜けた。咄嗟に全身で竜の背にしがみつく。だが、力が入らない。身体が滑り始める。痛みを感じないままに、流れ落ちる血が鱗に赤い路を造る。墜落の予感に全身の血が沸騰した。


「ふひっ、ここまでのようだなぁ。ふっ、ふくっ、ふはははははははっ。では——」


 奇声を上げて勝ち誇るヤンデルゼ。しかし、その言葉は途切れた。


「…………ん……、んええっ!?」


 困惑の声が流れてきた。目の前では躍動を始めた竜の皮翼。儂の体の下で、黒鱗が波のようにさざめく。


「え、え……、わたし……」


 アイソスっ!


「逃げ、ろ、アイソス——っうああっ」


 アイソスが目覚めたことで竜の体は姿勢を整えた。その動きが逆に儂を置き去りに。

 ぐっ、滑りつつあった体が、完全に、空中に——。


「グリムちゃん!?」


「あ、あ——」


 腕を伸ばす。アイソスが反転する。その動きがひどく緩慢に見えた。


 この高さ、落ちて無事でいられるはずがない。そう実感したとき、儂の感覚は変容していた。


 懸命に近づこうとするアイソスの姿も、その背後で笑うヤンデルゼの乾いた唇も、荒波のように靡く儂の聖幼女のローブも。時の流れが停滞してしまったかのように、緩やかにしか変化しない。


 グリムちゃん!


 そう叫ぶ声さえも間延びして聞こえる。伸ばした腕の先、竜の頭が(じれ)ったく迫る。


 あと少し——。


 吐息を感じるその距離で、アイソスの動きが完全に止まった。一転距離が開く。儂の体だけがゆっくりと落ちる。傷ついた掌からたなびく血が、黒鱗を赤く染める。


 アイソスの首に金属環が見えた。猛獣のための首輪。そこに繋がる鎖の端部はヤンデルゼに握られていた。


 く……だめだ……これは————。


「グリムちゃん! グリムちゃんっ!!」


 急に鋭い叫びが届いた。呪縛から解放されたように、時が流れ出す。急速にアイソスが遠ざかる。そして、なすすべもなく落ちゆき——。


「ぎゃんっ!」


 背中に強い衝撃を感じた。一瞬目の前が真っ暗になる。衝撃に身体が動かせない。視界に映るは空。


 空中にとどまっているのか? 何かが儂の背を支えている?

 しかしそれは、ほんの短い時間。思考が働きだすよりも先に、再び落下していた。


 もとより呪印の作用でまともに動けない。拘束されたアイソスの姿がさらに遠ざかる。視界が反転し、今は迫る地面が見えていた。


 ああ——。


 刹那の後に儂は。


 意識が薄れる。この体は、もう。




 すまない、アイソス——。











 衝撃は訪れなかった。


 儂の視界は、鮮やかな赤で埋めつくされていた。


 ああ、そうか……。


 儂は生き延びたのだな。だが、この出血。最早長くはないのだろう。


 せめて……せめて、アイソスを助けたかった。儂に悦びを与えてくれた彼女を。儂のために苦しむ幼女を。


 なんと情けないことだ。この儂が、幼女ひとり救えないなど。いったい、どれほどの刻、どれほどの数の幼女と過ごしてきた? 儂の中に流れる幼女成分は、これほどにも儂に力を与えてくれていたというのに。


 く、うぅ——。こんな今際の際に再認識させられるとは。

 なぜ儂は『幼女断ち』などしていたのだ。

 なんと愚かな。もっと、もっと! 絶え間なく幼女を! この儂に幼女を! 幼女を————。


「よう、じょ……ぉぉぉ……」


「幼女殿っ!」

「グリムワルド様っ!」


——あ?


 あれ……?


 儂、無事……なのか? いや、未だ身体はまともに動かせない。力も入らない。吐き気を催す不快さも消えていない。それでも、致命傷というほどではない……のか? あの高さから落ちたというのに?


「おい貴様っ、癒しの薬はないのかっ。早く幼女殿を!」

「わ、私は! ともかく止血を」


 そうか。前にもあったな。あの赤はゼナロリスか。ゼナロリスが儂を受け止めてくれたのだな。


「ゼナ……」

「幼女殿! 大丈夫か!」


 話すことすら辛かった。掠れた声しか出せぬ儂の口元に、ゼナロリスは顔を寄せてくる。


「アイソスを……助け……」

「当然だ! だが、今は幼女殿を! 幼女グリムワルド様が先だ!」


「アイソス、だ、ゼナ。たの、む…………。にがせ……」

「う……、オレは、だがっ!」


 なぜ躊躇する、ゼナロリス。お前は大切だと言ったではないか。ならば。


「また、褒美を……」

「う…………ぅう……、ウオオオオオオォォーーーーッ!」


 ゼナロリスは咆哮とともに覚悟を決めたようだ。山中で儂を助けた時に見せた、獣性を剥き出しにしたかのような圧を発している。儂の手当てを行っている隊長の腰から『破魔の大剣』を引き抜くと、真紅の狼はその柄を咥えたまま走り出した。


 半ば朽ちたイズキャルルの蔓を一条の赤が駆け上る。その先端まで行き着くと、ゼナロリスはアイソスに向かって跳躍した。


 ヤンデルゼの首輪によって繋がれていたアイソスは、なおも儂に近づこうともがいていた。だが単純な力では、奴の束縛から逃れられない。見た目通りの鎖ならば、簡単に引き千切れるはずだというのに。

 それができないのは、『呪獄』と評されるヤンデルゼの力だ。呪印にしてもそうだ。束縛こそが奴の力。奴を四天王たらしめている能力だということを儂は知っている。

 儂なら打ち破ることができる。だが、アイソスでは逃れようがないだろう。ゼナロリスが『破魔の大剣』を持って行ったのは正解だ。


 ヤンデルゼは馬の手綱を操るように鎖を振るっている。風に乗って奴の高笑いが響く。

 憤怒に心が焦がされた。

 アイソスを獣のように扱う様が許せん。勝ち誇った嘲笑が腹立たしい。怒りの炎が、呪印の活性化によって蝕まれた儂の精神を浄化してゆく。


 オオオオオオオーーーーッッ!


 ゼナロリスの叫びがヤンデルゼの不快な笑いを打ち消した。蔓の頂点からさらに上空。二階建てほどの距離を一足飛びで詰め、ゼナロリスは竜の背に立っていた。


——?


 いや待て。ゼナロリス……なのか?


 大地からはかなり遠いこともある。はっきりとはその姿が見えない。今の儂には確信が持てなかった。


 ゼナロリス?は『破魔の大剣』を両手で構えている。その姿は、燃えるような赤髪をもつ人間のものだった。


 しかも幼女!


 それだけは間違いないっっ!

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