031 覚えなき過去
「君は知っているだろう? あの湖に面した森を。私が育ち、今も根付いている場所だよ」
湖に面した森——?
記憶を探る。
ああ、確かに。そこは千年樹たるイズキャルルの本体を中心に広がった森だ。ここ数十年、儂はこの山脈を拠点にしていたため滅多に訪れることはなかったが、それ以前には定期的にその地へ向かう時期があった。
「儂が知っているのは、遙か昔の話だ。その当時は、そこに貴様がいたかどうかなど知らんな」
「ああ——、やはりそうなんだね。覚えていない、というよりも、君は僕のことを気にも留めていなかったんだ。でも——、そう。君のせいではないよ。その当時の僕は、意思あるだけの小さな木。今のように精神を具現化し、君と語らうこともできなかったのだからね」
「小さな木、か」
「え? グリムちゃん、植物にまで手を出していたのですか?」
「黙って聞けっ!」
アルビオーネの横槍に、イズキャルルのため息が聞こえた。
「ああ、そうしてくれていたら、どんなに嬉しかっただろう——。でも君は、すぐに姿を見せなくなってしまったね」
確かそこは、さして広くもない森だった。穏やかな流れの川を内に抱き、湖に隣接した森だ。儂はその先にある街に用事があったのだ。
街を訪れる前の休息地として、その森を利用していた。身体を休め、湖で身を清め、心穏やかにするための場所として訪れていた。街に行く理由がなくなってからは、翼を向けることもなくなったのだが。
「とても——ああ、とても悲しかった。僕はね、グリムワルド君。君に助けられていたんだ。君が来てくれる度に、癒されていたんだ」
「儂が貴様を? そんな記憶はないな」
「それでも。君にとっては気まぐれで、なんの意図もなかったとしても。嬉しかったんだ。ねえ、グリムワルド君。森の樹々というのはね、共生関係であり、敵対関係でもあるんだよ」
「そんなことは考えたこともないな」
興味もない話だ。儂には未だにコイツの遠い過去など思い出せない。あの森や湖畔にいるときの儂は、街で堪能できるであろう至福の時を想像するばかりだったからな。
「樹々が集まることで、そこには森という生態系ができる。樹木の与える恩恵が他の生き物を呼び寄せる。彼らが生活することで、森は豊かになってゆくんだ。でもね、ああ、一方で樹々は争っているんだ」
イズキャルルの声量が増した。筒を通したかのような響きが加わる。アルビオーネに遮られているためその表情は見えぬが、身振り手振りがより大袈裟なものになっていく。
「そう、彼らは日の光を求めて幹を生長させ、競って枝葉を伸ばす。地中の栄養を求めて、他の樹よりも太く、長く根を張る。大気や魔物の死骸から魔素を得るために、各々が独自の吸収器官を発達させる。そんな厳しい環境の中で、小さな僕に君は与えてくれたんだよ。素晴らしき栄養を。成長の糧を」
「儂が与えただと。そんな妄想で——」
「ああっ! なんてことを言うんだい。それとも謙遜なのかい? そんな必要はないよ、グリムワルド君。だって、君のおかげで、僕はこうして成長し、四天王と呼ばれるまでに強大になることができたのだから。僕のこの身体は、君によって形造られたと言っても過言ではないのだからね」
コイツは——まさか儂の魔素を吸収していたのか?
確かにあの森で休息していた時の儂には、気の緩みがあったかもしれん。小さな木、とイズキャルルは話したが、四天王となる素質を秘めた奴だ。儂に気づかせぬままに、溢れ出す魔素を吸収する手段を持ち得ていたとしても不思議ではない。
そう思いながら、アイソスに目を向けた。拘束する蔓からは、より細く網目状に広がる蔦が伸び、広範囲に及ぶアイソスの傷に吸い付いていた。
「ふん、そうか。儂には全く覚えがないが、それが貴様の儂への執着の根源というわけなのだな。
「ああ——その通りだよ、グリムワルド君。僕は君が欲しいんだ。もう一度——いいや、これから先ずっと、君と一緒に居たいんだ。ああ、心配しないでいいよ。今の君の暮らしぶりは把握している。君は何も変わらない。何もしなくていいんだ。今まで通り、堕落した生活で十分なんだよ。ただ僕と共に居てくれるだけでいいのだから」
コイツ……微小なれど心動かされる提案をしてくるとは。だが、儂がこんな奴に縛られ、満足できるとでも思っているのか?
「僕は悲しかったんだよ。君が僕のもとに来てくれなくなってしまって。こうして僕の意識を形成し君に会いに行っても、君は会ってくれないし」
「貴様に興味はないからな」
むしろ鬱陶しい。そして今は、明確に憎むべき敵だ。
「君は知らないだろう。君に面会を断られた後も、僕は君の山を幾度も訪れていたんだ。はは……未練がましいと思うだろうけど、それほどに君を想っていたんだ。だから——ああ、これは千載一遇の好機なんだよ」
「好機、だと。儂が貴様のモノになどなるわけなかろう。ましてや、貴様は儂の街に手を出し、アイソスをも傷つけた。貴様を滅ぼすことに躊躇はないな」
「その通りです! 私のグリムちゃんを拐おうなど、どんな理由であれ許されるものではありませんっ!」
「同志アルビオーネ君。僕と君は森の樹だ。共にグリムワルド君を愛で、共にグリムワルド君を奪い合う。結果は、僕の森と同じだよ。僕が、すべてを支配する」
「そうはいきませんっ!」
アルビオーネが声を張り上げた。イズキャルルが長々と話していた間に、儂を覆う蔦は大半がアルビオーネによって剥がされている。手足は未だに拘束されているが、見せかけに過ぎない。幾重にも這わされていた蔦も、今は数本を残すのみだ。
後は離脱のタイミング。そして未だ眠ったままのアイソスをどうするか、だ。儂のブレスならば、拘束する蔓も破壊できるはずだ。先程はイズキャルルの鏡に防がれたが、奴の気を逸らしさえすれば——。
「——でも、残念だよ。アルビオーネ君。そんなことは無駄だ」
イズキャルルの声色が沈んだ。体に虫が這いずるようなざわつく魔力の流れに、思考を中断させられた。
「グリムちゃん!?」
アルビオーネも同じものを感じたのだろう。慌てて儂の方へ顔を向けた。だが、それだけではなかった。儂を解放しようと暗躍していた彼女の尻尾に、新たな蔦が絡んでいた。
「この蔓は、僕の一部なんだ。だから、ああ——わかるのだよアルビオーネ君」
アルビオーネの尻尾に絡まるのは、儂を拘束していたものと同じ、細い蔦草だ。彼女であれば難なく振り解けるソレは、警告のつもりなのだろう。
「君は僕と近しいものを感じる。だから、大人しくしていて欲しいんだよ」
「イズキャルル様、私もわかりましたよ」
静かに、落ち着いた言葉をアルビオーネは紡いだ。
彼女の喉元が蠢いた。獲物を飲み込む時とは逆に、嘔吐するかのように波打たせる。裂けた口先から覗かせたものを、振り向きざまにイズキャルルに放った。
「なんだい、これは。人間の流儀での『決闘の申し込み』というもの——」
受け取ったイズキャルルがその布切れを広げると、一気に声量が変わった。
「あ、ああっ。これはっ!」
「そう、グリムちゃんの下着ですよ」
あ? なんだとっ!?
「アルビオーネ君、これは、この聖遺物はっ、どうやって!」
「遺物ですって? 違いますね。私の別腹に保管していたものですから。脱ぎたてのほやほやと変わりありません。ふふっ、貴方の望むものも、あるかもしれませんねぇ」
「お、おおっ、ああああっ!」
「グリムちゃん! 今ですっ!」
「は——んなあぁっ!」
瞬時に、儂の体が闇に包まれた。それがアルビオーネの口内であることに、遅れて気づく。
次いで頭に血が昇る感覚に襲われる。残った蔦を一気に引きちぎり、儂を完全に口の中に隠したアルビオーネが蔓を這い降りているのだろう。
その動きが止まった。ゆっくりと、蛇の口が開かれる。
「お、おい、アリュ?」
「先に……」
「は? な、うああぁっ!」
儂の体が浮いた。いや、落ちている。地面は——まだ遠い。落ちながら、アルビオーネの蛇身が蔦に絡めとれらている様子が映った。
「ゼナロリス、グリムちゃんをっ!」
「おうっ!」
跳躍した真紅の狼が、空中で儂の体を受け止めた。柔らかな獣毛は、それでも落下の勢いを殺せず、儂の体が跳ね上がる。
再度飛び上がったゼナロリスは、今度こそ儂の体をその背中に収めた。しっかりと儂の足を咥えながら、教会の庭を駆ける。
周囲にはイズキャルルの放った魔蜂が数匹飛び回っていた。他は街中に散っていったのだろう。すでに人の姿はほとんど見られない。教会の庭には魔蜂にやられ地に伏せる姿があるだけだ。他の者が逃げおおせたかなど、儂にはわかるはずもない。
独り破魔の大剣を振るう隊長だけが、この場に立つ無事な人間だった。
「ふっ、ふうっ、ふうううっ!」
息荒く、ゼナロリスはジグザグに庭を走る。目指すは教会内部か。足元の地面からは、新たな蔓が伸びる。イズキャルルの意思で儂らを拘束するために生み出しているのだろう。
「隊長! お前も引けっ!」
「グリムワルド様っ。私がお守りしますっ!」
魔蜂をあしらいながら、隊長がゼナロリスに続いた。やはりコイツ、なかなか戦えるではないか。
あとはアルビオーネ。とゼナロリスの背から目を向けると、拘束されたアルビオーネの全身が輝きを増していた。かと思うと光は収束し、白光の大蛇は、あるべき半人半蛇の姿に戻った。隙間のできた蔦から抜け出し、蛇身で蔓を打ち据えて大地に降りる。
イズキャルルはといえば、未だ布切れ——いや儂の下着、なのか?——を眼前にかざしたまま震えている。その異様さに、儂もまた全身が震えた。
だが、まあ、今のうちだっ。
ゼナロリスが教会の扉を潜り抜けた。次いで隊長が、アルビオーネが。追いすがる魔蜂には爪撃一閃。儂を下ろしたゼナロリスが屠るのを見て、隊長が重い扉を閉めた。




