36 いまでもこっそり聴いてます
さやかが平日昼間の間勤務する自動車会社大手下請け企業は今日も忙しい。そこで事務員として働くさやかが一枚の紙を持って男に頭を下げている。
「困るよーこの忙しい年度末に有給って、大体がこの前取ったばかりだろう君」
事務机に肩ひじを突きさやかを見上げる男は事務部門の課長である。
だんだん忙しくなっていくバンド活動の為に有給まで使い地方遠征をしている。高校生である由美たちはその学校の特性もあり前もって連絡しておけば結構自由に休めるが社会人はそうはいかない。有給が元々取りづらい会社であった。40日近い有給を持っていたが2月に入って最後のライブが金曜日なのでリハーサルを考えると有給を取るしかない。
「申し訳ありません課長、でもどうしても今回だけは休ませてください」
「前回もそんなこと言ってなかったっけ、一体全体急にどうしちゃったんださやか君」
アルバイトは特に禁止されてはいないがスナックで働いていることやバンド活動の事は黙っていたさやか。スナックに関してはさすがにちょっとまずいと思っていたしバンド活動も遊びと思われ、そんな事で有給申請すれば跳ねられると思っていたからだ。
「私的都合っていっても限度があるんじゃないかね」
きらりと課長の眼鏡が光る。
言われてみればその通りだと俯くさやか。
会社を辞めるという選択肢が浮かぶ。なんとか正社員として潜り込めた会社である。職場結婚して夫婦共働きすれば贅沢は出来ないがそれなりの人生を歩める。今、退職を願い出て浮き沈みの激しい世界に身を投じるにはリスクがありすぎる。
だがもうさやかはステージからみた景色が忘れられなくなっていた。自分が叫べばオーディエンスが答えてくれる。客は年配者が多かったが熱い気持ちが伝わってくる。何より自分の歌に涙を流して喜んでくれる顔を見てしまったのは感慨深かった。
「ライブです。ライブがあるんです」
課長が顔を顰める。
「君、いい年してアイドルの追っかけでもしてるのかね」
「違います!ライブに出なきゃならないんです。そこで歌わなきゃいけないんです!」
一瞬固まる課長。名前は『星児』、そして苗字は『流』。
「君がライブに出るって何冗談言ってるんだ、しかも歌を歌うって馬鹿も休み休み言え」
課長は知っている。
いくらギターの腕を磨いても、いくら喉が張り裂けようとも有給40日も使い切るほどのライブ出演など早々出来ないことを。
さやかはスマホを取り出すとYouTubeにアクセスし自分が所属する由美のバンドの動画を課長に見せた。新しく上げた動画のサムネにはヘルメットを目深にかぶった職人姿のさやかが写っている。
「これです」
そういって課長にスマホを渡す。
「これが・・・君だっていうのか。ありえんだろうこのバンドのボーカリストが・・・」
課長はバッグからイヤホンを取り出しスマホに接続した後サムネをクリックした。ちょっと前からもしかしてとは思っていたが、あまりに現実離れした考えにさやかに問いただすこともしなかったが鍛えられた耳は正直だった。
さやかの特徴あるハスキーボイスが課長の耳をつんざく。
スマホ動画とさやかを交互に見る課長。
動画が終わると課長はスマホをさやかに返す。
「わかった、今回は認めよう。私もかつて『ジャガーの星』と呼ばれた男だ」
かつて遅れて来た本格的ハードロックバンドと呼ばれたジャガー。世界的なバンドにも認められたがその時既にハードロックを聴く者は少なかった。その中でリードギターを担当した流星児、今ではしがないサラリーマンであるが熱いロック魂を失ってはいない。家ではギターを弾くと怒られるので自家用車に乗り高速パーキングエリアに車を止めその中でギターを弾いている。
部下と飲みに行けば歌いたくない歌も歌った。みんなが歌う歌を寂しく聞いた。そんな後に一人ハードロックが流れるバーに行けば同じ年の男たちがいて当時を懐かしみながら語らいリクエストに応じてギターを弾くのが楽しみだ。
スマートな体つき、優雅な身のこなしは昔のまま。
ちなみに社内ではロックつながりのある幹部社員から『流星〇長』と呼ばれている。
流は受話器を取ると内線で部長に連絡を取った。
「君、いやさやかさんそのままでいてくれ」
しばらくするとドアがバシンと開き太ったさやかが所属する部の部長と他の部の部長に取締役のダンディーな男が課長の机に殺到してきた。流がバーで知り合った男たちである。
さやかはサインを強請られついでにチケットをお願いされた。
『なかなかチケットが手に出来なくなってきたんだ』と嬉しそうに語る部長たち。さらに集合写真まで撮ることとなった。
夢破れこうして社会人として働く男たちにとってはさやかは眩しかった。
「わが社にこんな凄い娘がいたとはびっくりしたよ流星〇長」
「今日はどうします○○さん」
「飲みに行くしかないだろー、なあさやかさん!」
「さやかさん、一杯奢らせてくれないだろうか。みんなに自慢できる」
「あのー、有給の件は・・・」
「そんなつまらない話はどうでもいい!君の席はいつでも確保しておく」
取締役のダンディーな男がニッコリ笑う。職権乱用である。
今は社会的にある程度の地位にいるがみんな学生時代夢破れた男たちだった。日頃忙しく働きもうライブハウスに行くこともない。いや、行けなかったのだ。忘れてしまいたい事が人には往々にしてあるものだ。それでも未練を断ち切れない男たち。さやかの前に立つ男たちの目が輝き始める。
「世界中で君たちの音楽が注目されている。俺たちが憧れた世界がだ!」
その日の夜、男たちは飲んだくれ涙にくれた。
ちなみにさやかは、男たちに『喉に悪いから』と言われタクシーチケットを渡され早々に家に帰された。




