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28 雇われボーカリストから

 さやかは駅のトイレに入ると着ていた服を脱ぎ、ディバッグの中に突っ込んできた職人服に着替えた。一緒に持ってきた紙袋の中に入っている半長靴とヘルメットを身につけ、スニーカーを紙袋に入れると脱いだ服と一緒にディバッグにしまう。


 駅の改札口を抜けると目の前にアルタの方へ人混みの中へと進む。

 化粧を施し整った顔を深く被ったヘルメットが覆いはみ出た長い髪が揺れていなければ女職人と見まごう。

 一度、八洲平八郎率いる神竜組一同が収録動画を見た後、急にどーしてもその姿を生で見たいと懇願され貸切になったバイト先のスナックでお披露目した。


『カッコいいのー』


『このギャップがいかしてまさー、さすが親分が見込んだだけはありますぜ』


『孫にも衣装ですな、おやじ』


『全くだ、だがもーちっと筋肉が欲しいところじゃのー』


『やっぱそう思いますか。せめてジャッカル花子くれーの体格だともっと決まるんですがね』


 神竜組は組長を始め全員格闘技が趣味である。

 暇があれば事務所の隣の部屋の大広間にある運動器具で体を鍛え各種格闘技で技を磨いている。特にプロレスが大好きで専用の施設まである。先代、先先代からいやもっと前からコツコツと設備の充実を図ってきた神竜組。格闘技馬鹿が集まる伝統ある博徒集団である。


 プロレスラーの入場曲は大概ヘヴィメタルやハードロック。プロレスの本場アメリカではちょっとでも温い曲は観客が許さない。神竜組のハードロック・ヘヴィメタル好きの根源はプロレスラー入場曲だ。ちなみにジャッカル花子は売り出し中の女子プロレスラーである。

 

 格闘技と共に神竜組一同のハードロック・ヘヴィメタルへの造詣は深い、と言うよりハードロック・ヘヴィメタル中毒である。

 ヘヴィメタルやハードロックを聴き慣れるともう身体が温い曲を受け付けなくなり、ヘヴィメタル・ハードロック中毒と言っていい状態になる。事実北欧のある国では『メタルがあるから僕が難聴になった上に、もう真っ当な曲を聴くことが出来なくなった!貴様ら全員訴えてやる!」とメタル専門レーベルが訴えられた事があったのだ。

 北欧は冬が長い。

 国民の多くが冬の間引き籠る。

 年寄りや家族持ちはそれでも持ち堪えられる。

 だが社会に出た若者は暇を持て余す。

 税金が高い事と引き換えに充実した失業給付で生活は贅沢をしなえれば安定している。ずっとテレビを見ていても飽きる。あるものはネットやネットゲームに、あるものは刺繍や服作り、あるものはオシャレな家具製作で暇を潰す。その中で音楽に没頭していくのも必然。特に若い男性は女性にモテたい事もあり、雪解けまでにギターなどの楽器演奏技術を磨く。ポップロックからハードロック、ヘヴィメタルへと技術の高みを目指し始める者が多い。

 その中から世界に羽ばたくギタリストが生まれた。

 良い面も有れば悪い面もあるこの様な状態で、精神を歪めてしまう者も居たりする。人間の暗黒面に囚われた者は遂にはブラックメタルに行き着き悪魔崇拝し始める。社会を呪い仲間を募り、集団で教会を焼き討ち。

 家族がいたり真っ当な友人が居れば犯行前に通報され医療施設に収容されるが、そうでない者は自らに死装束を施し森を彷徨った挙句、暗黒儀式を行い街の教会を焼き払い警察に捕まるのがパターンである。

 さやかがボーカルをしている由美のバンドはミクがほとんど作詞しているので、社会への憤りはあっても宗教施設を焼き払う事もないちょっとワイルドなだけの曲がメインである。


 さやかは階段を上りながら、その先に刺す強い日差しに目が眩む。

 すでに暑さで倒れそうだ。

 出口に架かるひさしの陰から見渡せば、新宿通りの反対側に同じ服を着た少年少女に艶やかなドレスを纏い日傘をさす少年が見える。7月にしては暑すぎる気温の中でバンド名の入ったジャンパーを羽織り、ドレスを纏い宣伝活動に身を挺するメンバー。ベルサイユ宮殿から抜け出てきた様なドレス姿の美少年の姿を見れば、家からみんなそのままの姿でここに来た事は容易に想像出来る。

 家を出た時からバンド活動が始動しているのだ。

 それに引き換え自分はと思う。自分の人生を妹や弟と言って良い連中と共に掛ける気になり始めているさやか。 


 世界中で200万近くの人に自分の声が聴かれている。

 その実績を持ってメンバーとともにこれから牧に案内された大手芸能プロの社員に会う。

 この先に何が待っているか考えると不安がよぎる。

 ハードロック・ヘヴィーメタルの世界は華やかで楽しい芸能界とは全く違うとYouTubeで勉強した。地獄の悪魔の様なステージ衣装に入れ墨まみれの体の男や女が演奏し、地獄のようになったコンサート会場で凄い人数の観客が左右に分かれて、そこから相手に向かって激突し殴り合い頭の上に人が飛び交っていた。

 その中にこれから飛び込んでいこうというのだ不安がないわけがない。だがもう引き返せない、引き返す気もない。

 


 背中に大きくバンド名がプリントされた職人服を纏ったさやかの背筋が伸び、半長靴が大きく一歩夏の日差しの中へと踏み出した。

 




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