冬の始まり
結局、あの日のことは何も分からなかった。
帰宅した翌朝、私はまず父のところへ行った。
「お父様、昨日アルヴィンと何を話したの?」
「仕事の話だ」
「どんな仕事?」
「お前が気にするようなことではない」
「でも、帰ってすぐアルヴィンだけ呼び出したでしょう?」
「だからといって、お前に逐一報告する必要はないだろう」
取りつく島もなかった。
「帰りが遅かったことを叱ったのではなくて?」
「それについてはアルヴィンに注意した。それだけだ」
「本当にそれだけ?」
「それだけだ」
父はそれ以上、何も教えてくれなかった。私は仕方なく父の執務室を出たものの、どうにも納得できない。ならば本人に聞けばいい、と今度はアルヴィンを捕まえた。
「アルヴィン」
「はい、お嬢様」
「昨日、お父様と何を話したの?」
「大した話ではありませんよ」
「お父様にも聞いたわ」
「そうですか」
「教えてくれなかったの」
「それは残念でしたね」
「あなたまで!」
私が睨むと、アルヴィンはいつものように涼しい顔をしている。
「旦那様と私の間の話ですので」
「ずるいわ」
「申し訳ありません」
謝っているようで、まるで悪びれていない。ならば、と私は誕生日のブローチについても聞いてみた。
「それで、あのブローチは?」
「ブローチ、ですか?」
「私の部屋にあったでしょう。白蝶貝の」
「白蝶貝の?」
アルヴィンは少し考えるような顔をして、それからしれっと言った。
「ご自分で買ったものもわからないようでは困りますね、お嬢様」
「買ってないわ!」
「そうでしたか?」
「そうよ!」
「では、どなたからいただいたのでしょうね」
「あなたでしょう!」
「さて。覚えがありませんが」
あまりにも堂々とした態度に、私は言葉を失った。
アルヴィンが準備してくれたに違いないという、胸を満たしていた暖かな気持ちが一気に失われる。結局、それ以上聞いてもアルヴィンは何も教えてくれなかった。私は不満を抱きながらもそれ以上はどうしようもなく、仕方なく自室に戻り、そして例のブローチの入った箱を恭しく取り出した。
誕生日の夜に着たドレスに合わせてみれば、思った通りによく似合った。白蝶貝の柔らかな光が淡い色の生地によく馴染み、細かな透かし彫りの向こうから覗くドレスの色まで、装飾の一部のようだ。オーロラのような、シャボン玉のような、柔らかく美しい色合い。誕生日にこれを着ると知っていたのは、お母様と、同席していた侍女と、それからアルヴィンだけなのに。
そうして夏が過ぎ、秋が深まり、やがて木々の葉が落ちると、季節はゆっくりと冬へ移っていった。
「寒い……」
窓辺に立って外を眺めながら、私は心底嫌そうに呟いた。
庭はすっかり冬の色になっている。木々の枝は裸になり、朝方には薄く白い霜が降りる。吐く息が白くなるほどの寒さでは、さすがの私も以前のように気軽に馬を駆る気にはなれない。
「本日の乗馬はお休みになさいますか?」
アルヴィンが尋ねる。
「……するわけないでしょう」
「それは残念ですね」
「あなた、絶対残念だと思ってないでしょう」
「よくお分かりで」
私は暖炉の前に置かれた椅子へと戻った。乗馬ができないとなると、冬は途端に退屈になる。いや、正確に言えば、社交の予定は増えているのだ。ただ私がそのほとんどを、理由をつけて欠席しているだけで。
「フィオナ、お前もそろそろ真面目に夫となる相手を探しなさい」
朝食の席でそう言われたことも、一度や二度ではない。
「探すって言われても……」
「お前は公爵家の娘だ。いつまでも好き勝手にしているわけにはいかない」
「好き勝手なんてしていないわ」
「アルヴィンを追いかけ回しているだろう」
「それは別よ」
「何が別なんだ」
父の呆れた顔を見て、私は頬を膨らませる。社交界に出れば、当然のように男性を紹介される。父が持ってくる縁談の話も増えてきた。もちろん、相手の家柄も申し分ない。領地も、財産も、教育も、本人の評判も悪くない。私が結婚相手として検討するなら、どの人物も決して悪い条件ではないのだろう。
――でも。
「アルヴィン」
「はい」
「好き」
「はいはい」
「……むかつく」
「申し訳ありません」
今日もこれだ。私が好きと言えば、アルヴィンはいつも通り軽く受け流す。もう何年も続いているやり取りだから、今ではそれが日常になっていた。
それでも私は毎日、懲りずに愛を伝えていた。朝、顔を合わせた時にも、昼に用事を頼んだそのついでにも、廊下ですれ違えば、わざわざ振り返っても。アルヴィンはそのたびに「はいはい」と返す。まるで、今日の天気について話しているかのような気軽さだった。
「……本当に、いつになったらちゃんと聞いてくれるのかしら」
「毎日きちんと聞いておりますよ」
「そういう意味じゃないの」
「では、どういう意味でしょう?」
「……もういい」
私はそっぽを向いた。アルヴィンはそんな私を見て、いつものように小さく笑っている。
冬になると、こうしたやり取りの合間に座学の時間まで増えた。乗馬ができない分、家庭教師による授業が増えるからだ。歴史、政治、領地経営、外国との交易、社交上の作法、それから、貴族として知っておくべき様々な知識。皮肉なことに、あの誕生日の日に公的にアルヴィンから贈られたマナー本が非常に役に立っていた。
私だって、自分が公爵家の娘であることくらい理解している。将来どこかの家へ嫁ぐ可能性もあるし、夫となる人と共に社交界へ出ていくこともあるだろう。だから勉強しなければならない。
――そう、そんなことはちゃんと分かっている。
「では、次にこの条約が締結された背景について説明してください」
「…………」
「お嬢様?」
「先生」
「はい」
「今日はもう十分ではありませんか?」
「まだ始まって一時間です」
「一時間もやったわ」
「一時間しかやっておりません」
「……アルヴィン」
机の脇に控えていたアルヴィンへ助けを求めるように視線を向ける。けれど彼は涼しい顔で言った。
「頑張ってください、お嬢様」
「味方じゃないの?」
「私はお嬢様の執事ですので」
「こういうときだけ真面目なんだから……」
私は恨めしそうに教科書へ視線を戻した。
窓の外では、冷たい風が木々を揺らしている。乗馬はできない。気軽に街へ出ることも難しい。社交に出れば夫候補の話をされる。屋敷にいれば家庭教師が待っている。
そんな退屈な冬の日々の中で、私が指折り数えて待っているものが一つだけあった。年の終わりに行われる、冬の祝祭。家族や親しい者たちと食卓を囲み、贈り物を交換し、屋敷中を飾りつける一年の締めくくりの行事だ。
そして、その日はアルヴィンの誕生日でもある。私にとっては、年末の祝祭を楽しみにする理由が二つあるということだった。
「……今年は何を贈ろうかしら」
ふと呟く。
私は毎年、アルヴィンの誕生日には贈り物を用意してきた。十五歳になるまでは自分で自由に使えるお金がなかったから、両親に相談して用意してもらったこともあるし、自分で選びたいと頼んで一緒に店へ連れて行ってもらったこともある。十五歳で社交界へ出るようになってからは、自分で使えるお金も持つようになり、贈り物も自分で選ぶようになった。
去年は万年筆を贈った。今でもアルヴィンがそれを使っているのを見かけるたびに、少し嬉しくなる。
今年はどうしよう。そう考えるたびに、いつもあの白蝶貝のブローチが頭に浮かんだ。あれは、きっとアルヴィンが選んだものだ。本人は認めなかったけれど、あの誕生日のドレスによく似合うものを探してくれたのだ。そう思うと、胸の奥が少しだけくすぐったくなる。
「……今年は、少し特別なものにしたいわね」
「何かおっしゃいましたか?」
「何でもないわ」
私は慌てて教科書へ視線を戻した。けれど、もう条約の文章は頭に入ってこない。今年はアルヴィンに何を贈ろう。そんなことばかりが頭の中を巡っていた。
冬は嫌い。勉強も嫌い。縁談の話はもっと嫌い。けれど、年末の祝祭だけは楽しみだった。
「……何にしようかな」
「お嬢様」
「分かってるわ。授業中でしょう?」
「はい」
私はしぶしぶ教科書へ向き直った。それでも心はもう、年の終わりへ向かっていた。




