内廊下にて
アルヴィンが内廊下の角を曲がろうとしたとき、私は反射的に一歩踏み出しかけた。
けれど、すぐ隣には母がいる。ホールには大勢の客人がいて、私は今日の主役としてその場に立っているのだから、いくらアルヴィンが気になったからといって、何も言わずに追いかけていくわけにはいかない。私は少し迷ってから、口元を隠して声を顰めた。
「お母様」
「なあに?」
私はできるだけ自然な笑顔を浮かべたまま、母のほうへ顔を向けた。
「少しだけ、お化粧を直してきてもいいかしら?」
母は私の顔を眺め、それから視線をゆっくりと内廊下へ向けた。
「…………」
「…………」
一瞬の沈黙。
「お化粧なら、さっき直したばかりでしょう?」
「そうだったかしら?」
「そうよ」
母の目が、なんとも言えない色を帯びる。私はにっこりと笑った。何も知りません、という顔を作る。こういうときこそ淑女の微笑みが役に立つ。
「では……少し気分転換を」
「フィオナ」
「なあに?」
「アルヴィンでしょう?」
図星だった。
「……どうして分かるの?」
「あなたがとくべつ分かりやすい顔をしているからよ」
母は呆れたように言いながらも、怒っている様子はなかった。むしろ仕方がないわね、とでも言いたげに小さく息をついている。
「少しだけよ。今夜の主役なのだから、あまり長く席を外しては駄目よ」
「分かっているわ!」
その言葉だけは妙に元気よく返してしまった。
私は周囲へ目を配り、ちょうど別の夫人が母へ声をかけた隙を見計らって、そっと人の輪から抜け出した。さすがにドレスの裾を持ち上げて走るような真似はしない。そんなことをしたら、これまで積み重ねてきた淑女教育が一瞬で台無しになる。だから、歩く。できるだけ優雅に。誰から見ても、ただ少し席を外した公爵令嬢にしか見えないように。
内廊下へ出ると、ホールの喧騒が少し遠くなる。音楽も、人々の話し声も、厚い扉を一枚隔てただけでずいぶんと静かに感じられた。私はドレスの裾を軽く持ち上げながら、先ほどアルヴィンが向かった方向へ足を進める。廊下の先に、黒い服の背中が見えた。思わず呼びかけそうになって、慌てて口を閉じる。こんなところで大声を出したら、せっかくこっそり抜け出してきた意味がない。
私は足音を抑えながら、その背中を追った。けれど、ドレスの裾が思った以上に大きく広がっているせいで、いつものようには歩けない。チュールが幾重にも重なったスカートが足元でふわふわと揺れるたび、今夜のために仕立てられた美しいドレスが、こういうときにはなんとも邪魔だった。それでもようやく廊下の角を曲がると、少し先にアルヴィンの姿が見えた。
「……アルヴィン」
小さく名前を呼ぶ。その声が届いたのか、彼が足を止めた。書類を片手に振り返る。そして、私の姿を見た瞬間、ほんのわずかに目を見開いた。
「……お嬢様?」
その声を聞いただけで、胸の奥がぱっと明るくなる。私はにっこりと笑って、彼のところまで歩いていった。
「やっと見つけたわ」
「……私をお探しでしたか?」
「だって、昼からずっといなかったでしょう?」
「旦那様から仕事を頼まれておりましたので」
「それは知っているわ」
私は少しだけ口を尖らせる。
「でも、今日、私の誕生日なのよ?」
そう言ってから、彼の顔をじっと見上げた。
アルヴィンは相変わらず落ち着いた顔をしている。手にした書類にも、私のドレスにも、特別驚いた様子はない。けれど私は、彼の視線がほんの一瞬だけ私の髪からドレスの裾まで落ちたのを見逃さなかった。
「……お似合いですよ、お嬢様」
「でしょう?」
私は途端に機嫌を直した。
「とっても綺麗でしょう?」
「はい。存じております」
「何よ、それ」
思わず笑ってしまう。こういうところは、やっぱりアルヴィンだ。
私は彼の前まで来ると、さっきまでホールで何人もの男性を相手にしていたときとはまるで違う、いつもの顔で彼を見上げた。
そして、ふと気づく。
「……ねえ、アルヴィン」
「はい」
「私、まだ今年のプレゼントをもらっていないわ」
そう言うと、アルヴィンは一瞬だけ目を瞬かせ、それからフィオナの顔を見つめた。やがてその視線が、淡い色のドレスへとゆっくり落ちていく。何枚ものチュールを重ねた裾には細かな刺繍が施され、ところどころに散りばめられた小さなビーズが、遠くの燭台から届く光を受けて、瞬く星のようにきらめいている。
アルヴィンはしばらく何も言わなかったが、やがて視線を落としたまま、わずかに口元を緩めた。
「……今お渡ししても、ホールにお戻りになる際にお荷物になります」
「お荷物?」
思わず聞き返すと、アルヴィンは少しだけ眉を下げて、そっと微笑みを浮かべる。
「はい。お嬢様はこれから、まだたくさんの方々とご挨拶をなさらなければなりませんから。贈り物を抱えて歩かれるよりは、後ほどお部屋でお受け取りになったほうがよろしいかと」
なるほど、と一瞬だけ納得しかけて――フィオナはすぐに首を傾げた。
「じゃあ、いつ渡してくれるの?」
「……」
アルヴィンの微笑みが、ほんの少しだけ困ったものになる。フィオナはその表情を見逃さなかった。いつものように何でもそつなくこなして、どんな無茶なお願いをしても涼しい顔で受け流してしまう彼が、こうして返事に困っているのを見るのは少しだけ楽しい。
「今夜?」
「はい」
「このパーティの後ってこと?」
「そうですね」
「寝る前?」
「……おそらく、そのあたりになるかと」
「渡しに来てくれるの?」
「どうでしょう」
「ずいぶん曖昧ね」
「申し訳ありません」
そう言いながらも、アルヴィンは笑っている。
なんだか怪しい。絶対に何かある。
フィオナはじっと彼の顔を見上げた。けれど、アルヴィンはそれ以上何も言うつもりがないらしい。いつもの穏やかな表情を崩さないまま、ただ静かにこちらを見返している。
せっかくの誕生日なのだから、少しくらい先に教えてくれてもいいのに。
そう思ったけれど、どうせ聞いても、この男は教えてくれない。何年もそばにいるのだから、それくらいはもう分かっている。
「……分かったわ」
渋々そう答えると、アルヴィンは安心したように目を細めた。
「ありがとうございます。それでは、お部屋に置いておきましょう」
「私のお部屋に?」
「はい。戻られたときには、すぐ分かるようにしておきます」
その言葉に、フィオナの胸がぱっと明るくなる。
「本当に?」
「ええ」
「ちゃんとあるのね?」
「もちろんです」
その一言を聞いて、フィオナはようやく満足した。
やっぱり、用意してくれていたのだ。
朝からずっと、今年は何をくれるのだろうと気になって仕方がなかったのだから、贈り物そのものを今すぐ受け取れなくても、それがあると分かっただけで嬉しい。けれど――それでも、少しくらい中身を教えてくれてもいいのではないかと思う。
「……何かしら」
ぽつりと呟くと、アルヴィンが首を傾げる。
「何がでしょう?」
「プレゼントよ」
「それは、お部屋に戻られてからのお楽しみということで」
「アルヴィンの意地悪」
「申し訳ありません」
そう言いながら、まったく申し訳なさそうではない。フィオナは頬を膨らませたものの、結局は笑ってしまった。こういうところがずるいのだ。何を言っても怒った気になれないし、こちらがどれだけ食い下がっても、最後にはいつも彼のペースに戻されてしまう。
けれど、今日はそれでもいい。だって、部屋に戻れば、アルヴィンからの誕生日プレゼントが待っているのだから。
「じゃあ、絶対に忘れないでね」
「はい。忘れませんよ」
「約束よ?」
「はい、約束いたします」
その返事を聞いて、フィオナはようやく満足そうに微笑んだ。それから、ふと背後を振り返る。
廊下の向こうには、先ほどまで自分が抜け出してきた祝宴の明かりがまだ煌々と輝いている。扉の向こうでは、きっと今も大勢の人が自分を待っているはずだ。
――戻りたくない。
ほんの一瞬、そう思った。けれど、今夜の主役は自分だ。いつまでも抜け出しているわけにはいかない。
「……仕方ないわね。戻るわ」
「はい。ご案内いたします」
アルヴィンがそう言って歩き出す。フィオナもその隣へ並び、歩きながらちらりと彼を見上げた。
今夜、部屋に戻ったら、そこには何が置かれているのだろう。
そう考えるだけで、先ほどまでうんざりしていた祝宴さえ、少しだけ待ち遠しく思えてくるのだった。




