待ち人
ホールへ足を踏み入れると、すでに祝宴は始まろうとしていた。
高い天井から吊り下げられた大きなシャンデリアには無数の蝋燭が灯され、磨き上げられた床にはその光が柔らかく映り込んでいる。壁際には色とりどりの花が飾られ、長いテーブルには今夜のために用意された料理や菓子、銀の器に注がれた酒が整然と並んでいた。招かれた客人たちは思い思いに談笑しながらも、私が母とともに姿を現すと、こちらへ視線を向ける。
「お嬢様、お誕生日おめでとうございます」
最初に声をかけてきたのは、以前から付き合いのある伯爵家の夫人だった。私は教え込まれたとおり、ほんの少しだけドレスの裾を摘まみ、柔らかな笑みを浮かべる。
「ありがとうございます。本日はお越しいただいて、とても嬉しく思いますわ」
声の高さも、笑顔の角度も、頭を下げるタイミングも、もう身体が覚えている。十五歳で社交界に出てから一年、こうした場での振る舞いについては、それなりに一通りの教育を終えていた。公爵令嬢として人前に立つ以上、いつまでもじゃじゃ馬のままではいられない。
そんなことを考えながら、私は次々と挨拶に訪れる人々へ笑顔を向けていった。そして、母が夕方に言っていた意味も、ほどなくして分かった。
「フィオナ嬢、お誕生日おめでとうございます。我が家からも、ささやかではございますがお祝いの品をお届けしております。後ほどぜひご覧ください」
「まあ、お心遣いありがとうございます。大切に拝見いたしますわ」
「ありがとうございます。ところで、我が息子も今年で十八になりますので……」
「ええ」
母の隣で、私は笑顔を保ったまま頷く。
紹介された青年も、私と同じように笑っている。仕立ての良い衣服に身を包み、髪もきちんと整えられ、いかにも育ちの良さそうな青年だった。後ろには両親らしき男女が控えており、父親が我が家との付き合いや領地について話し始める。
「我が領では近年、鉱山の開発が進んでおりましてね。来年にはさらに――」
「まあ、それは素晴らしいですわ」
「息子も領地経営について学んでおります。いずれは私の仕事を引き継ぐことになりますので、家を支える者としても――」
「ええ、とても立派ですわね」
私はにこやかに答えながら、心の中で別のことを考えていた。
――長い。そもそも、この人と私、まともに話したことあったかしら。
記憶を探ってみても、社交界のどこかで一度挨拶をしたような、していないような、その程度しか思い出せない。それなのに今日は、領地の話から家の将来、本人の教育方針に至るまで、まるで面接のように次々と説明されていく。しかも本人だけではない。
「私どもの家は王都でも古くから続く家柄でして」
「まあ、そうなのですね」
「親族にも宮廷に仕える者が多く――」
「それは素晴らしいことですわ」
「息子は剣術にも優れておりまして、先日の――」
「まあ」
私は相手の話に感心しているように頷き、頃合いを見て相槌を挟みながら、口元には柔らかな笑みを絶やさない。淑女教育で叩き込まれた所作は、こういうときには実に便利なものだった。どれほど退屈でも、興味深そうな顔をしていられるし、話題が尽きればこちらから当たり障りのない質問を投げることもできる。その一方で、頭の中ではひたすら別のことを考えていた。
――いつ終わるのかしら、これ。
淑女教育とは、かくも大変なものだったのだと、私は今さらながら実感していた。
「フィオナ」
母の声がすぐ隣から聞こえる。
「なあに、お母様?」
「もう少し楽しそうに」
笑顔を崩さないまま、母が小声で囁いた。
「笑っているでしょう?」
「口元はね」
そう言われた直後、脇腹を指先でつつかれた。私は笑顔を保ったまま、母のほうをちらりと見る。
「痛いわ」
「でしたら、もう少しだけ我慢なさい」
母はにこやかに前を向いたまま、まるで何事もなかったかのように続ける。
「あなたのお誕生日なのですから、皆さんあなたとお話ししたくていらしているのよ」
「……分かっているわ」
もちろん、分かっている。
私が公爵家の一人娘だから、今夜こうして大勢の人が集まっていることも、十六歳になった私に対して、これから少しずつ結婚相手を考えていく時期になったことも、相手の家柄や領地、本人の資質などを見て、こちらも判断される立場にあることも、淑女教育の中で何度も教えられてきた。
だから、ちゃんとやる。相手の話を聞いて、失礼のないように受け答えをして、必要ならこちらからも質問する。笑顔を絶やさず、相手の家族にも丁寧に挨拶をする。公爵家の娘として恥ずかしくない振る舞いをする。それくらいのことなら、私にだってできる。ただし、できることと、やりたいことは別なのだ。
――ものすごく、めんどくさい。
「こちらが本日の贈り物でございます」
「まあ、わざわざありがとうございます」
別の侯爵家から来た夫人が、少し離れた場所に用意された贈答品の話を始めた。どうやら大きな箱がいくつか届いているらしく、私が後で開けることになっているらしい。
「息子が選びましたのよ。フィオナ嬢に似合うものを、と」
「まあ……お気持ち、とても嬉しく思いますわ」
私は相変わらずにこやかに答えながら、内心では、どうして今日に限ってこんなに長いのだろう、と途方に暮れていた。
その後も何組かの家族が訪れた。皆、私と同じくらいの年頃の息子を連れていて、家柄の話をしたり、本人の得意分野を紹介したり、領地の豊かさをさりげなく示したり、あるいは別室に届けられている贈り物について触れたりする。そのたびに私は同じように微笑み、丁寧に言葉を返し、相手の話を聞いていった。
こうして一通りの挨拶を終える頃には、さすがに少しばかり疲れていた。けれど、ようやく一息つけると思った私は、母の横で小さく息を吐きながら、何気なくホール全体を見渡す。
大勢の人々が集う広間は、先ほどよりもずっと賑やかになっていた。音楽が流れ、グラスが触れ合い、あちらこちらで楽しげな笑い声が上がっている。色とりどりのドレスがシャンデリアの光を受けて揺れ、紳士たちの黒い礼服がその間を行き交う様子は、まさに華やかな祝宴そのものだった。
私はぼんやりとその光景を眺めながら、ふと、ホールの端にある内廊下へ目を向けた。
その廊下を、ひとりの使用人が歩いている。
黒い服に身を包み、手には何枚かの書類を抱えている。こちらの喧騒など気にする様子もなく、いつもの落ち着いた足取りで廊下を進んでいく、その姿には見覚えがあった。
整えられたダークブラウンの髪。
見慣れた横顔。
「……あ」
思わず声が漏れる。
アルヴィンだった。
昼からずっと帰ってこなかった、今日一番会いたかった人が、ようやく屋敷へ戻ってきていた。
しかも、彼はまだ私に気づいていないらしい。ただ仕事の途中なのだろう。いつもと変わらない顔で、何食わぬ様子で内廊下を歩いている。
それなのに、アルヴィンの姿を見つけた途端、さっきまであれほど重たく感じていた祝宴が、ほんの少しだけ違って見えた。
私は母の隣に立ったまま、無意識に彼の姿を目で追う。
昼からずっと会えなかったせいだろうか。いつも見慣れているはずの背中が、今日は妙に嬉しく思えた。
それから、ふと胸の奥に小さな期待が膨らむ。
――そういえば、まだ今年の誕生日プレゼントをもらっていない。
もしかしたら、何か用意してくれているのかもしれない。
そんなことを考えた瞬間、先ほどまでの疲れが嘘のように少しだけ気にならなくなって、私は彼がどこへ向かうのかを、じっと目で追い続けていた。




