そんなの聞いてない
夕方。
窓の外が茜色に染まり始める頃には、屋敷の中もすっかり祝宴を迎える支度を整えていた。磨き上げられた廊下には夕暮れの光と燭台の明かりが重なり、遠くからは料理の準備をする音や、客人を迎えるために忙しく行き交う使用人たちの気配が絶えず聞こえてくる。今夜は私の十六歳の誕生日を祝うため、昨年よりもずっと多くの客が招かれているらしい。
そんな華やかな屋敷の一室で、私は姿見の前に座り、侍女に髪を結ってもらっていた。
「もう少しだけ顎を引いてくださいませ、お嬢様」
「こう?」
「はい。ありがとうございます」
侍女の手が髪をすくい、細く巻かれた髪を一房ずつ丁寧にまとめていく。その指先をぼんやり眺めながら、私は鏡の中の自分を見つめていた。
今日のために仕立てられたドレスは、朝から楽しみにしていたものだった。
淡い色合いのチュールを幾重にも重ねた、まるでシャボン玉をそのままドレスにしたような色彩の衣装。光の当たる角度によってほんのりと違った色を見せるチュールには、細かな刺繍が施され、その上からさらに繊細なビーズが一つひとつ縫い留められている。夕暮れの光や燭台の明かりを受けるたび、それらがきらきらと輝きを返し、淡い色の布地の中に無数の小さな星が浮かんでいるようだった。
胸元から腰にかけては身体の線を綺麗に見せるよう仕立てられているのに、スカートは驚くほど軽やかで、少し身体を動かしただけでも幾重ものチュールがふわりと揺れる。華やかなのに決して重たくなく、透けるような素材と淡い色彩のおかげで、鏡の中の私はいつもの自分より少しだけ現実味が薄いように見えた。
髪もいつもより丁寧に巻かれ、化粧も普段よりずっと時間をかけて施されている。朝にもらった髪飾りまでつけてもらえば、さすがに文句のつけようもないくらい、綺麗に仕上がっていた。
私は鏡の中の自分をじっと見つめる。
口を閉じて、こうして大人しくしていれば――そこにいるのは、どこか泣き出してしまいそうな、儚げな令嬢だった。
淡い色の髪に、光を受けて揺れるドレス。伏せた睫毛の下に覗く淡い紫と青の瞳は、どこか現実離れした色をしていて、少しでも表情を消せば、今にも消えてしまいそうな雰囲気さえある。少なくとも、この姿だけを見た人なら、私のことを大人しくて物静かな娘だと思うかもしれない。
――実際の私は、そんなに大人しくないけれど。鏡の中の儚げな令嬢を眺めながら、私は小さく唇を尖らせた。
「……アルヴィン、まだ帰ってこないのかな」
昼過ぎ、彼は「旦那様から頼まれた用事がございますので」と、いつもの落ち着いた顔で屋敷を出ていった。
よりによって、今日。私の誕生日なのに。
朝にはちゃんと会えた。いつものように「好き」と言って、毎年恒例の「結婚して」まで言った。アルヴィンは相変わらず、はいはい、とでも言うように受け流していたけれど、それでも私は満足していた。けれど、誕生日はそれだけでは終わらない。朝食の席では両親から贈り物をもらったし、使用人たちからもお祝いの言葉をもらった。母からもらった髪飾りは、今こうして髪に飾られている。
では、アルヴィンは?
去年は銀の栞。その前は手袋、そのさらに前は髪を結ぶための細いリボン。どれも決して大げさな贈り物ではなかったけれど、私が普段何を使っているのかをちゃんと見ていなければ選べないものばかりだったから、私は毎年、ひそかに楽しみにしていた。今年は何をくれるのだろう、と。
ところが、その本人がいない。
プレゼントだって、まだもらっていない。
「……せっかくの誕生日なのに」
鏡の中の自分に向かって、もう一度唇を尖らせる。すると、ちょうどそのとき扉が開いた。
「まあ」
振り返ると、母が部屋へ入ってくるところだった。
「フィオナ、とても綺麗ね」
母は私の姿を見るなり、嬉しそうに目を細めた。私は少し照れながら鏡へ向き直る。
「そう?」
「ええ。いつものあなたも可愛いけれど、今日はちゃんと淑女に見えるわ」
「ちゃんと、って何よ」
思わず頬を膨らませると、母がくすくすと笑った。
「ふふ。そういうところはいつも通りね」
「もう」
母は私の隣まで歩いてくると、鏡の中の姿をしばらく眺めた。
「この色にして正解だったわね。あなたの髪にも瞳にもよく似合っているわ」
「うん。私も好き」
スカートの端を少しだけ摘まんで揺らしてみると、チュールの層がふわりと広がり、その上に縫い込まれたビーズが一斉に光を弾いた。まるで薄い水の膜の中に小さな星を閉じ込めたみたいで、思わず目を細める。
「今夜はきっと皆さん、あなたに釘付けね」
「そうかしら」
「ええ。十六歳になったのだもの。去年よりもずっと大人っぽく見えるわ」
母はそう言って満足そうに頷くと、私の髪飾りにも目を留めた。
「それもよく似合っているわね。朝に渡した甲斐があったわ」
「うん。すごく気に入ってる」
指先でそっと髪飾りに触れる。銀細工の小さな花と、その中央に嵌め込まれた淡い石が、動くたびにかすかに光った。
「完璧ね」
母が満足そうに微笑む。
「そろそろホールへ行きましょうか。お客様も集まり始めているでしょうし」
「うん」
椅子から立ち上がると、ドレスの裾が足元で柔らかく揺れた。髪飾りにも明かりが反射し、鏡の中の自分がきらきらと輝いている。こんなに綺麗にしてもらったのだから、できれば一番に見てほしい人に見てもらいたかった。それだけが、少し残念だった。
アルヴィンは、今どこにいるのだろう。
そう考えながら母の隣に並び、部屋を出ようとしたところで、母がふと思い出したように口を開いた。
「そうそう、フィオナ」
「なあに?」
「今日はね、いくつか縁談が来ているのよ」
「…………え?」
思わず足が止まった。
「縁談?」
「ええ」
母は何でもないことのように頷いた。
「あなたも十六歳でしょう? 社交界に出て一年になるし、そろそろそういうお話も増えてくる頃なのよ。今日はお祝いも兼ねて、何人かのご家族がいらっしゃる予定なの」
「…………」
私は母の顔を見つめた。
縁談。
その言葉が頭の中でゆっくりと意味を持ち始める。
「えっ!?」
ようやく声が出た。
「聞いてないわ!」
「今、言ったでしょう?」
「そうじゃなくて!」
あまりにも寝耳に水だった。私は思わず胸元に手を当てる。さっきまで鏡の中で儚げに見えていた令嬢はどこへやら、今の私は目を丸くして母を見上げるばかりだった。
「ちょっと待って、お母様。縁談って……私の?」
「あなたのよ」
「今日!?」
「今日よ」
母はどうしてそんなに平然としていられるのだろう。私は唖然としたまま、ホールのある方向へ目を向けた。今夜は誕生日を祝ってもらうだけだと思っていたのに。
――どうして誰も、そんな大事なことを教えてくれなかったの?




