可愛い
翌朝、鏡の中の自分を見た私は、思わず眉を寄せた。
「……ひどい顔」
昨夜、あれだけ泣いたのだから当然だ。目元は赤く腫れ、侍女が用意してくれた冷たい布で何度も冷やしたものの、腫れは完全には引いてくれなかった。これでは、どんなに身なりを整えても台無しだ。それでも、いつまでも部屋に閉じこもっているわけにはいかない。私はどうにか人前に出られる程度に顔を整え、いつもどおり朝食の席へ向かった。
食堂では、お父様がすでに席についていた。向かいに座っている気配を感じながらも、私はなるべく顔を上げないようにして、パンを小さくちぎった。いつもなら新聞を読みながら何気ない話をしたり、今日の予定を尋ねたりするお父様も、今朝は何も言わない。無理に話しかけてこないのは、私の様子を気遣ってのことなのかもしれなかった。けれど、気遣われれば気遣われるほど、昨夜のことを意識してしまう。
「……お嬢様」
隣に控えていたアルヴィンが、そっと私に声をかけた。
「昨夜は、よく眠れましたか?」
「……普通よ」
口にした途端、自分でも無理のある答えだと思った。目元の腫れを見れば、何かあったことくらい一目瞭然だろう。それでもアルヴィンは追及せず、「そうですか」とだけ答えた。
彼が私の様子を気にしていることはわかる。私が一度もお父様と目を合わせていないことにも、きっと気づいているはずだ。それなのに、何も聞かない。その距離の取り方が、今朝は妙に心細かった。
結局、食事が終わるまで私はお父様の顔を見られず、そのまま逃げるように席を立った。その後の授業も、さっぱり身が入らなかった。
次の授業まで少し時間が空くと、私は窓辺の椅子に腰を下ろし、庭を眺めていた。冬の近い空気は澄んでいて、手入れの行き届いた庭もいつもと変わらない。何もかもが昨日までと同じなのに、私だけが取り残されたような気分だった。そのとき、控えめなノックが響いた。
「どうぞ」
扉が開き、アルヴィンが姿を見せる。
「失礼いたします」
「……何?」
顔を向けると、アルヴィンはいつもどおり落ち着いた様子で部屋に入ってきた。
「お嬢様のご様子を伺いに参りました」
「別に、何ともないわ」
「そうですか」
いつもの調子で返され、私はますます面白くなくなった。何ともないはずがないことくらい、あなたが一番よくわかっているでしょうに。アルヴィンは私から少し距離を置いたところで足を止め、窓の外へ一度視線を向けてから、静かに口を開いた。
「旦那様とも、少しお話しされてはいかがですか」
「嫌よ」
考えるより先に答えていた。アルヴィンがわずかに眉を上げる。
「物事を、いつまでも引きずるのは――」
「アルヴィン」
私は彼の言葉を遮り、椅子から振り返った。
「あなた、私に仲直りしろって言ってるの?」
「……仲直りというほどのことではないでしょう」
「私は怒ってるの」
「存じております」
「すごく怒ってるわ」
「それも存じております」
あまりにも平然と返されて、かえって腹が立った。私は腕を組み、彼から顔を背ける。
「お父様が正しいのはわかってるもの」
「……はい」
「私とあなたが結婚できないのも、わかってる」
そこで、アルヴィンは何も答えなかった。その沈黙に、胸の奥がじわりと痛む。わかっている。わかっているからこそ、苦しいのだ。
「私だって馬鹿じゃないもの。ずっとあなたに片思いしてることくらい、自分でもわかってるわ」
言い切ってから、私は膝の上で握っていた手に力を込めた。いつもなら、好きだと伝えることに何のためらいもない。何度断られたって、明日になればまた好きだと言える。けれど、昨夜からずっと、いつものようには振る舞えなかった。
私は少し迷ってから、アルヴィンを見上げた。
「……でも」
声が思っていたよりも小さくなる。
「あなたは、私に少しも気持ちがないわけ?」
部屋が静まり返った。
アルヴィンは私を見つめていたけれど、答えは返ってこない。ほんの少しでも、何か言ってくれたらよかったのに。否定でも、肯定でも、いつものような素っ気ない冗談でも。何もないまま時間だけが過ぎていくのが、たまらなく嫌だった。
「……そうよね」
私は唇を尖らせ、視線を落とした。
「どうせ私のことなんて、子供としか思ってないんでしょう」
「そのようなことは――」
「じゃあ、何?」
言いかけた言葉を、自分でも止められなかった。
「好きじゃないの?」
アルヴィンは困ったように私を見た。少なくとも、私にはそう見えた。
「お嬢様」
「なによ」
「私は、あなたが思っているほど単純な人間ではありませんので」
「何それ」
答えになっていない。頬を膨らませて椅子の背にもたれると、私は自分の気持ちを持て余したまま、ぽつりとこぼした。
「……私、結構可愛いのに」
口にしてから、なんだか情けなくなった。自分で自分を褒めて、好きな人に選んでもらおうとするなんて、まるで子供みたいだ。けれど、今さら取り消すのも癪だった。
「こんなに可愛くて、あなたのことが好きで、毎日好きって言ってるのよ」
アルヴィンはしばらく黙っていた。やがて、ほんのわずかに口元を緩める。
「自分で言わないでください」
「だって本当でしょう?」
「……可愛いですよ」
あまりにもあっさりと言われたものだから、私はすぐには意味を理解できなかった。
「…………え?」
アルヴィンは、何事もなかったかのような顔をしている。
「何ですか?」
「い、今……」
「はい?」
「可愛いって……」
「申し上げましたが」
「……本当に?」
「ええ」
「私が?」
「お嬢様以外に誰がいるんですか」
あまりにも平然と言うものだから、今度こそ何も言えなくなってしまった。
さっきまで怒っていたことも、悲しかったことも、ほんの一瞬、頭の中から消えてしまう。頬が熱い。きっと、腫れた目元まで赤くなっているに違いない。
それでも、彼の言葉は胸の奥にゆっくりと染み込んでいった。昨日からずっと、胸の中に溜まっていた苦しさが、嘘のように軽くなっていく。
お父様の言葉も、私たちの身分のことも、この先どうなるのかという不安も、何一つ解決してはいない。アルヴィンが私をどう思っているのかだって、結局のところ、はっきりとはわからないままだ。
それなのに、たった一言、可愛いと言ってもらえただけで、こんなにも救われてしまう。……やっぱり、私を元気にしてくれるのはアルヴィンなのだ。
そう思うと、ふいに昨夜見た夢のことを思い出した。夢の中で、アルヴィンは私の名前を呼んでいた。あれから、ずいぶんと時間が経った。
あの頃は、今よりもずっと何も知らなかった。公爵令嬢とその従者という関係が何を意味するのかも、私たちの間にどれだけの隔たりがあるのかも、周囲の人々が私たちをどう見るのかも、よくわかっていなかった。
けれど、知らなかった頃には戻れない。
私も成長したし、アルヴィンだって変わった。昔のように、ただ一緒にいられればそれでいいと笑っているだけでは済まないことを、今の私は知っている。
それでも。
「……アルヴィンのくせに」
懐かしさに沈みかけた気持ちを振り払うように、私はようやくそれだけ言った。アルヴィンは小さく笑う。
「何ですか、それは」
「別に」
今度は、私も少しだけ笑えた。
昨夜の涙の跡が残った顔で笑うなんて、我ながら単純だと思う。それでも、無理に大人びたことを言ったり、わかったふりをしたりするのは、今はやめておきたかった。お父様の言葉に納得できなくてもいい。これから先のことが不安でもいい。アルヴィンの気持ちがわからなくて、時々こうして悲しくなったっていいのだ。
だって、私はまだ十七歳なのだから。
少なくとも今だけは、彼の前でいつもの私に戻っていたかった。昨日よりも、ずっと息がしやすかった。




