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泣いて見る夢

 どれくらいそうしていたのか、わからなかった。枕に顔を埋めたまま、ただ泣いていた。涙は一度止まったと思っても、また溢れてきて、頬を濡らしては枕へ吸い込まれていく。


 やがて、扉を叩く控えめな音がした。返事をする気にはなれなかったけれど、しばらくすると扉が静かに開く。


「……フィオナ」


 お母様の声だった。返事をしないままでいると、足音が近づいてくる。やがてベッドがわずかに沈み、私の隣に誰かが腰を下ろした。


「お母様……」


 ようやくそれだけ呟くと、お母様の手がそっと私の髪に触れた。柔らかな指が、乱れた髪を何度も撫でていく。


「お父様も、意地悪であんなことを言ったのではないのよ」


「……わかってるわ」


 声にすると、また涙が滲んだ。


「お父様が私のことを大切に思ってくれていることくらい、わかってる。アルヴィンのことだって……嫌っているわけじゃないもの」


「ええ」


 髪を撫でる手は止まらない。


「お父様も私もね、あなたの気持ちをできるだけ大切にしてあげたいと思っているのよ」


「……だったら、どうして」


「そうね」


 お母様は少しだけ困ったように笑った。


「本当に、ままならないわね」


 その言葉が妙に優しくて、私はまた枕に顔を伏せた。


「私たちはね、運が良かったのだと思うわ」


「……何が?」


「結婚よ」


 思いがけない言葉に、私はゆっくり顔を上げた。お母様は少し遠くを見るような目をしていた。


「世の中には、愛情のないまま結婚する人もたくさんいるでしょう。家のため、領地のため、家同士の繋がりのため。それが悪いことだとは言わないわ。そういう結婚が必要なこともあるもの」


 それから、お母様は私の頬に残った涙を指先で拭った。


「でも、私たちは幸運だった。お父様とは、お互いを尊敬できたし、少しずつ好きになっていくこともできた。今では、こうして一緒に生きていきたいと思えるほど大切な人よ」


 柔らかく微笑む。


「そして、あなたを授かったでしょう?」


「……お母様」


「だからこそ、あなたにも愛のない結婚をしてほしいとは思っていないの」


 胸の奥が、きゅっと痛んだ。


「だったら……」


 言葉が続かない。アルヴィンの名前を出すだけで、また涙が出そうだった。


 お母様はそんな私を見て、少しだけ息をついた。


「アルヴィンが駄目なのは、あなたが彼を好きだからではないのよ」


「……身分でしょう?」


「ええ」


 迷いのない返事だった。


「アルヴィンは素晴らしい人よ。お父様だって、それはよく知っているわ。あなたのそばで長く仕えて、あなたを支えてきたことも、彼がどれだけ優秀なのかも」


 お母様の手が、私の髪をゆっくり梳く。


「でも、公爵家の一人娘と、男爵家の次男でしょう」


「……そんなの」


「あなたが気にしなくても、世の中の人は気にするのよ」


 私は唇を噛んだ。


「もしあなたたちが結婚したら、きっと色々なことを言う人が出てくるわ。アルヴィンがあなたに取り入ったのだとか、財産や名誉を得るためだったのだとか。あなたを利用したのだと、彼のことを悪く言う人もいるかもしれない」


「そんなの、違うわ」


 思わず声が強くなった。


「私が一番よく知っているもの。アルヴィンがそんな人じゃないことくらい……!」


「ええ。私も知っているわ」


 お母様は静かに頷いた。


「だからこそ、お父様は嫌なのよ」


「……」


「あなたのことも、アルヴィンのことも大切だから。二人が何を言われても平気な顔をしていられるほど、この世の中は優しくないもの」


 私は俯いた。お母様のいうことは正しい。わかっているからこそ、苦しい。


「……私は、いいもの」


「え?」


「何を言われたっていい。アルヴィンと一緒にいられるなら、私はそれでいいわ」


 涙で濡れた顔のまま、私は顔を上げた。自分が無茶苦茶なことを言っている自覚があっても、止めることができなかった。


「私はもう十七になるのよ。子供じゃないわ。自分が誰と一緒にいたいかくらい、自分で決められるもの」


 お母様はしばらく私を見つめて、それから、ほんの少しだけ笑った。


「そうね」


 優しい声だった。


「あなたはもう十七歳ね」


 わたしの目をじっと見た後で、お母様は優しい声のまま続けた。


「でもね。フィオナ。あなたは、まだ十七歳なのよ。これからよ。これから、たくさんの人に出会うわ」


「そんなの……」


「今まで知らなかった人と話して、一緒に出かけて、考え方が素敵だと思ったり、気が合うと思ったりすることもあるでしょう」


 お母様は、少しだけ楽しそうに笑った。


「レスターだってそうでしょう?」


 私は何も言えなかった。


「あなたはレスターといるとき、とても楽しそうだったわ」


「……それは、そうだけど」


「でしょう?」


「でも……」


 言いかけて、私は目を伏せた。


「アルヴィンは、特別なの」


 それだけは、どうしても譲れなかった。お母様は否定しなかった。


「ええ。今のあなたにとっては、そうなのでしょうね」


 その言い方が、かえって寂しかった。


「今すぐ答えを一つに決めなくてもいいのよ。今の気持ちを無理に捨てる必要もないわ」


 お母様は私の頭を胸元へ引き寄せるようにして、幼い頃と同じように髪を撫でた。


「好きなら、今は好きでいていいの。十七歳のあなたが、十七歳の今の気持ちを大切にすることまで、誰にも悪いとは言わせないわ」


「……お母様……」


「ただ、十七歳のあなたが、これから先の人生を全部決めてしまわなくてもいいでしょう?」


 胸の奥に溜まっていたものが、また崩れた。


「……うぅ……」


 声を押し殺そうとしても、涙が止まらない。お母様は何も言わず、ただ私の髪を撫で続けてくれた。私はその腕の中で、子供みたいに泣いた。アルヴィンが好き。ただそれだけで良いのに。


 泣き疲れて重くなった瞼を閉じると、最後に感じたのは、髪を撫でてくれるお母様の手の温かさだった。


 そして、懐かしい夢を見た。



********************



 十三歳の頃。夏の終わりだった。


 領地の視察に同行した私は、屋敷の裏手にある庭園を歩いていた。あの頃のアルヴィンは、まだ執事見習いだった。ついこの間まで、私に「嫌です」だの「ご自分でやればいいでしょう」だの、生意気なことばかり言っていたのに。いつの間にか、敬語が板についていた。背筋を伸ばして歩き、扉を開けるときも、食事を運ぶときも、何をするにもそれらしい所作を見せる。


「お嬢様、こちらへ」


「お嬢様、お待ちください」


「かしこまりました」


 そんな言葉を使うようになったアルヴィンを見るたび、私は妙な気持ちになっていた。


「なんだか変なの」


 そう言ったこともある。アルヴィンは少しだけ眉を寄せて、


「何がでしょう」


 と聞き返した。


「だって、急に執事みたいになったんだもの」


「執事見習いですから」


「前はもっと生意気だったじゃない」


「そうでしたか?」


「そうよ」


 そんなやり取りをしていた。


 背も、急に伸びた。少し前まで目線が近かったのに、気づけば私が見上げなければならなくなっていた。肩も広くなって、手も大きくなった。新しい執事服を仕立てなければ、と屋敷の者たちが話していたのを覚えている。


 庭園の階段を下りていたときだった。ひらり、と、目の前を蝶が横切った。淡い色の翅が陽の光を受けて、きらきらと輝いている。


「わあ……」


 思わず足を止めた。蝶は階段の先へふわりと舞っていく。


 私は夢中でその姿を目で追った。もう少しだけ近くで見たい。そう思って、階段を一段下りようとした時、蝶ばかり見ていたわたしは、煉瓦作りの階段の、ちょうど欠けたところに足を置いてしまった。


「あ――」


 身体が傾いた、次の瞬間。


「フィオナ!」


 強い声が響いた。腕を掴まれてそのまま、身体ごと引き寄せられた。


 気がつけば、私は誰かの胸の中にいた。


「……っ」


 驚いて顔を上げる。アルヴィンだった。私を抱き止めたまま、息を乱している。いつもなら何を言っても涼しい顔をしているのに、見たことのない顔をしていた。


 私は呆然としたまま、彼を見上げた。


 私の身体は、すっぽりと彼の腕の中に収まっていた。背中に回された手は大きかった。以前はそんなふうに思ったことなんてなかったのに。自分の身体がアルヴィンにすっぽり包み込まれてしまうような気がした。アルヴィンは固まる私をそっと自分の胸から離すと、階段を降りたところにちゃんと立たせた。


「……お嬢様」


 いつもの声に戻ったアルヴィンが、少し遅れてそう言った。


「お怪我はありませんか」


 私は答えられなかった。ただ、胸の奥がどきどきして、ただ、自分とアルヴィンの身体の大きさがいつの間にかこんなに違っていたことに驚いていた。


「……アルヴィン」


 呼びかける。彼は少しだけ目を細めた。


「はい」


 その声を聞いたところで、夢の景色が少しずつ滲んでいく。十三歳の私が見上げた、大きな身体。大きな手。広い胸元。そして、私の名前を呼んだ声。


――フィオナ。


思い返してみれば、それが彼が私の名前を呼んでくれた最後だった。



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