白昼夢
それからも、レスターとは時折顔を合わせるようになった。王都に滞在している間に、レスターからお茶の誘いが来ることが何度かあったのだ。庭園の一角でお茶を飲んだり、お母様と一緒に公爵邸の客間で話をしたり、ときには街の話や領地の話を聞いたり。
レスターといる時間は、不思議なくらい気楽だった。これまで社交の場で知り合った他の子息たちといると、どうしても相手の視線を意識してしまう。どんな家の娘なのか。どれほどの持参金が見込めるのか。どんな性格なのか。そして、自分に好意を持ってくれるのか。
そういうことを探るような会話や、こちらの反応を確かめるような言葉が、どうしても混ざってくる。中には、私を褒めることに一生懸命になってしまって、こちらが返事に困るほどあからさまに好意を示してくる人もいた。
もちろん、社交なのだから仕方がない。私だって公爵令嬢なのだから、そういう目で見られることには慣れなければならないと思っている。
けれど、レスターにはそれがなかった。
「フィオナ、これ知ってる?」
「なに?」
「この前、王都の近くで新しい菓子屋ができたんだって」
「本当?」
「うん。兄貴が食べたらしい」
「じゃあ、今度行ってみたいわ」
「じゃあ、今度行こうか」
「……ええ?」
「嫌ならいいけど」
「嫌なんて言ってないでしょう」
そんなふうに、何でもない話をしているだけで時間が過ぎていく。私が何を考えているのかを探ろうとするわけでもなく、結婚の話を持ち出すわけでもない。だから私は、レスターと一緒にいるときだけは、少し肩の力を抜いていられた。
そんな日々を何度か過ごすうちに、仕立てに出していた衣装も完成した。届いた箱を開けると、丁寧に包まれた深い緑のドレスが現れる。光を受けると、布地の奥で柔らかな艶が揺れた。
「……綺麗」
思わず声が漏れる。
銀糸の刺繍も、髪飾りも、最初に決めたときのデザイン画そのままだった。レスターの瞳と同じ深い緑。そう思うと、なんとなく不思議な気分になる。
少し遅れて、レスターの夜会服についても仕立て屋から連絡が届いた。濃紺の生地に、私の瞳の色をした裏地。実際に並んで見れば、きっと綺麗なのだろう。そうして夜会の日が近づいてきた頃、レスターからまた誘いがあった。
「そういえば、王宮へ行く日はどうする?」
「どうするって?」
「当日、俺が馬車で迎えに行こうか」
「え?」
思いがけない申し出に、私は少し考えた。
「でも……」
「うん?」
「まだ婚約しているわけじゃないでしょう?」
「そうだけど」
「だったら、わざわざ屋敷まで迎えに来てもらうのは、ちょっと……」
王宮で開かれる大きな夜会だ。正式な婚約者でもない男性が、令嬢の屋敷まで馬車で迎えに来る。それがどんなふうに見られるのかくらいは、私にもわかる。
「王宮までは、うちから行けるもの」
「でも、俺が迎えに行ったほうが楽じゃない?」
「大丈夫よ」
私は笑って首を振った。
「それに、王宮で会えばいいでしょう?」
「……そう?」
「ええ」
レスターは少しだけ考えるような顔をしたものの、それ以上は何も言わなかった。
「わかった。じゃあ、会場で」
「うん」
そう答えてから、私はふと胸の奥に小さな期待があることに気づいた。王宮までレスターに迎えに来てもらわなくてもいい。そもそも、私にはアルヴィンがいる。
正式なエスコート役になることはできない。公爵令嬢の私と、アルヴィンはあくまで主従なのだから。けれど、会場まで護衛として同行することならできる。王宮の中でも、私のそばに付き添うことはできるはずだ。
だから、レスターに屋敷まで迎えに来てもらわなくてもいい。
その代わり――。
「アルヴィンには、会場まで来てもらおう」
私はそう思った。
エスコートしてもらえなくてもいい。隣を歩いてもらえなくてもいい。少し離れたところにいてくれるだけでもいい。王宮のような大きな場所で、私のことをよく知っている人がそばにいてくれたら、それだけで心強い。
それに。
せっかく仕立てたこのドレスを、アルヴィンにも見てもらいたかった。そんなことを考えている自分に、私は少しも疑問を抱かなかった。私にとってアルヴィンは、いつだってそういう存在だったからだ。
そう思っていたのに。
王宮での夜会を数日後に控えたある日のことだった。お父様に呼ばれ、私は執務室へ向かった。
「お父様、何か用?」
扉を開けると、お父様は机の向こうで書類を整理していた。
「来たか。座りなさい」
いつもより少しだけ硬い声だった。私は向かいの椅子に腰を下ろした。
「実は、当日のことだがな」
「当日?」
「王宮での婚約披露会だ。お前の護衛についてだが……今回はアルヴィンではなく、別の者をつけようと思っている」
「……え?」
思わず聞き返した。
「どうして?」
「王宮での大きな社交の場だ。人の出入りも多い。今回は護衛を専門に務める者をつけたほうがいい」
「でも、アルヴィンだって護衛はできるでしょう?」
「できる」
「だったら――」
「フィオナ」
お父様が静かに私の言葉を遮った。
「お前たちが仲が良いことを悪く言いたいわけではない」
その言葉に、私は口を閉じた。
「お前がアルヴィンに懐いていることも、よくわかっている。子供の頃からずっと一緒だったのだからな。私だって、それを今さら否定するつもりはない」
「だったら、どうして……」
「だがな」
お父様は一度言葉を切った。
「実情として、私は男爵家のアルヴィンとの結婚を許すわけにはいかない」
胸の奥が、ひやりとした。
「……」
「お前は公爵家の一人娘だ。将来、この家を支えるためにも、それに相応しい家との婚姻を考えなければならない」
「そんなこと……わかっているわよ」
自分でも驚くほど、強い声が出た。
「別にいいでしょう?」
「何がだ」
「アルヴィンと一緒にいるくらい」
私は立ち上がりそうになるのを堪えながら、お父様を見た。
「最近なんて、私だって忙しいのよ。勉強もあるし、社交もあるし、お茶会や夜会だってある。昔みたいにアルヴィンとずっと一緒にいられるわけじゃないじゃない」
「フィオナ」
「ほんの少しよ」
自分でも、声が震えているのがわかった。
「一緒にお茶を飲んだり、話をしたり、護衛についてきてもらったり。それくらいしかできないじゃない」
「それでも、外から見れば――」
「外から見れば何なの?」
思わず言葉が重なった。
「私は公爵家の一人娘なんだから、いつか誰かと結婚しなきゃいけない。家のために、それが必要なのもわかってる」
そんなことは、ずっと前から知っていた。「フィオナである前に公爵家の娘なのだ」と、小さな頃から何度も叩き込まれている。それがこの家に生まれた私の、公爵令嬢の役割なのだと。
「そのときになったら、ちゃんと考えるわよ」
私は拳を握った。
「フィオナ……」
「だから、それまでの間くらい」
喉が詰まりそうになる。
「大切な人を大切にして、何が悪いの?」
お父様の表情がわずかに変わった。
「私はアルヴィンと結婚できないことくらい、わかってるわ」
アルヴィンが男爵家の次男であることも。私が公爵家の一人娘であることも。家同士の釣り合いというものがあることも。私がいずれ、この家のために結婚しなければならないことも。全部、全部わかっている。
「だからって……」
声が震えた。
「だからって、今まで大切にしてきた人を、遠ざけなきゃいけないの?」
「そういう意味ではない」
「同じじゃない!」
私はとうとう立ち上がった。
「アルヴィンは私の執事よ。私が子供の頃からずっと一緒にいてくれたの。今だって、私が困ったときには一番に助けてくれる」
「それはわかっている」
「じゃあ、どうして!」
お父様が何か言おうとした。けれど、もう聞きたくなかった。
「……もういい」
「フィオナ、待ちなさい」
「嫌!」
私はお父様の言葉を振り切るようにして、執務室を飛び出した。廊下を歩いているうちに、視界が滲んできた。
嫌だ。
嫌。
自分の部屋に戻り、扉を閉める。その瞬間、張り詰めていたものが切れた。
「……っ」
涙が、止まらなかった。何度拭っても、次から次へと溢れてくる。ベッドの端に座り込んで、顔を伏せる。どうして、こんなに悲しいのだろう。アルヴィンと結婚できないと言われたから?
違う。
そんなこと、今日初めて聞いたわけじゃない。私は公爵家の娘で、アルヴィンは男爵家の次男。私たちの身分が違うことなんて、子供の頃から知っていた。いつか私は、家のために誰かと結婚しなければならない。その相手はアルヴィンではない。そんなこと、わかっていた。
わかっていたはずなのに。
「……いや」
小さく呟いた。
違う。私は、わかってなんかいなかったんだ。わかっているふりをしていただけ。ただ、わかったふりをして、ずっと考えないようにしていた。
そしてその代わりに、アルヴィンがそばにいることを当たり前だと思っていた。毎日「好き」と言えば、いつか振り向いてくれるかもしれないなんて。結婚して、と言う問いに、いつかは「はい」と言ってくれるかもしれないなんて。
でも、その「いつか」は来ない。私は誰かと結婚するけれど、それはアルヴィンではない。そしてそのときが来たら、アルヴィンは私の隣にはいない。今までと同じように、一緒に笑ったり、くだらないことで言い合ったり、私のそばにいてくれたりすることもなくなる。今の楽しい日々は、長い人生のほんのわずかな期間許されているだけの白昼夢のようなものだ。甘く、優しく、でも決して実現はしない、期間限定の儚い空想。お父様はただ、いつまでも空想に耽る娘にほんの少し現実を見せただけだ。
アルヴィンは私とずっと一緒にいてくれる人ではない。いつかずっと大人になって、あるいは年老いて、その時に隣にいるのはアルヴィンではない。誰か別の人の腕を取りながら、娘時代を懐かしく振り返った時に、砂糖菓子のように甘く思い出す存在になるんだろう。その現実を、その、都合の悪い事実を、私はわかっているような顔をしながら、その実ずっと見ないようにしていた。
「……そんなの、嫌よ……」
涙がまた溢れた。
ただ一緒にいられればいいと思っていた。でも、本当は、いつか失うことを、ずっと怖がっていた。だから目を逸らして、好きという言葉で誤魔化して、この毎日がずっと続くように願っていた。
涙は、いつまで経っても止まらなかった。




