お茶の時間
レスターを王宮でのエスコート役にすることが決まってから、思いがけず良いこともあった。
レスターと遠乗りに出かけたことや、その後も彼が頻繁に公爵邸を訪れていることが社交界にも伝わったらしく、それまでのように、エスコート役や婚約を意識した誘いが一気に減ったのだ。完全になくなったわけではないものの、以前のように新しい名前を次々と聞かされ、そのたびに父や母と相手の家柄について話し合ったり、釣り書きや肖像画を見せられたりすることはなくなった。
家庭教師は、これ幸いとばかりに空いた時間へ新しい授業を詰め込んできたけれど、それでも一時期に比べれば、ずっと自由な時間が増えた。何より、社交の場で常に誰かの視線を気にしていなければならないような息苦しさがなくなったのが大きかった。
そんなある日のことだった。
「お嬢様、本日の午後の授業についてですが……」
昼食を終えたところで、侍女から思いがけない知らせが届いた。
「家庭教師の先生が?」
「はい。急なご用事ができたそうで、本日はお越しになれないとのことです」
「……本当に?」
「はい」
「午後、全部?」
「はい」
私はしばらく黙った。
そして。
「やった!」
思わず立ち上がった。
「お嬢様……」
侍女が目を丸くする。
「だって、午後が全部空いたのよ!」
何の予定もない午後なんて、いつ以来だろう。
勉強もない。お茶会もない。社交の予定もない。何をしてもいい時間。
私はすぐに立ち上がった。
「ちょっと出かけてくるわ」
「どちらへ?」
「決まってるでしょう」
私は笑った。
「アルヴィンのところ」
執務室へ向かう廊下を、いつもより少し早足で歩く。
最近はアルヴィンも仕事が増えていて、以前のように私のそばにずっといるわけではない。顔を合わせる時間だって、昔に比べればずっと少なくなっていた。だからこそ、今日みたいな何もない午後は貴重だった。
執務室の扉を軽く叩く。
「どうぞ」
「アルヴィン、話せる?」
扉を開けると、アルヴィンは机に向かって書類を読んでいた。
「おや。お嬢様」
「今、忙しい?」
「ええ、まあ」
顔を上げたアルヴィンが、私を見る。
「何かございましたか?」
「今日ね、午後の授業がなくなったの」
「それは結構なことで」
「だから」
私は机の前まで歩いていく。
「お茶を飲みましょう」
「……今ですか?」
「今よ」
「突然ですね」
「だって暇なんだもの」
アルヴィンは手元の書類へ視線を落とした。
「私は仕事がありますが」
「じゃあ、仕事が終わったら」
「いつになるかわかりませんよ」
「待つわ」
「お嬢様」
「なに?」
「午後の予定が空いたからといって、私の仕事まで空いているとは限りません」
「知ってるわ」
私は当然のように答えた。
「だから、終わるまで待ってる」
「……」
アルヴィンが黙る。それから、小さく息を吐いた。
「仕方ありませんね」
「やった!」
「ただし、一時間だけです」
「二時間」
「一時間です」
「一時間半」
「一時間」
「……けち」
「仕事をしている人間に向かって、それはあんまりではありませんか?」
私は思わず笑った。
「じゃあ、一時間でいいわ」
「最初からそうおっしゃってください」
「だって、交渉って大事でしょう?」
「どこでそんなことを覚えたんです?」
「お父様のところで」
「なるほど」
アルヴィンは呆れたように言いながら、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「では、終わりましたらお声がけします」
「約束よ」
「はいはい」
「……その返事、好きじゃないわ」
「存じております」
「そういうところよ」
私は頬を膨らませながら、執務室を出た。
それから私は自室で本を読んでいた。
……つもりだった。
けれど、時計が気になって仕方がない。何度目かに時計へ目を向けたところで、侍女が呆れたように笑った。
「お嬢様、まだ三十分ほどしか経っておりませんよ」
「わかってるわ」
「でしたら、もう少しゆっくりなさっては?」
「そうしてるじゃない」
本を開いたまま、私はまた時計を見た。
「……まだ三十分」
「はい」
「長いわね」
「お嬢様」
とうとう侍女が笑い出した。
結局、アルヴィンから声がかかったのは、それからさらに三十分ほど経ってからだった。
「お嬢様、お待たせいたしました」
扉の向こうから聞こえた声に、私は勢いよく顔を上げた。
「終わった?」
「ええ。お約束の一時間です」
「行きましょう!」
「そんなに急がなくても逃げませんよ」
「早く!」
私はアルヴィンを連れて、庭に面した小さな応接室へ向かった。
家族が使う大きな客間ほど格式張っておらず、普段ちょっとしたお茶や読書をするための部屋だ。窓からは庭が見え、午後の柔らかな光が差し込んでいる。
「何を飲みますか?」
アルヴィンが尋ねる。
「紅茶」
「いつものもので?」
「今日は少し甘いものがいいわ」
「では、新しい茶葉を試しましょう。キャラメルの香りのついたものがあったはずです」
アルヴィンはそう言って、部屋を出ていった。
しばらくして戻ってきたときには、紅茶と小さな焼き菓子、それから果物のタルトがテーブルに並べられていた。
「わあ」
「そんなに喜ばなくても、ただのお茶ですよ」
「いいじゃない。今日は自由時間なんだから」
「それは何よりです」
向かいに座ったアルヴィンが紅茶を注ぐ。
私は一口飲んで、ほっと息を吐いた。
「おいしい」
「それはよかったですね」
「アルヴィンも飲んで」
「私は給仕を――」
「今日はいいの」
「……」
「一緒にお茶をするんでしょう?」
アルヴィンは一瞬だけ私を見た。
「……そうでしたね」
そう言って、自分のカップにも紅茶を注いだ。
「いただきます」
「うん」
向かい合って紅茶を飲む。
それだけなのに、なんだか嬉しかった。
「ねえ、アルヴィン」
「はい」
「最近、忙しい?」
「それなりに」
「前より?」
「前よりは」
「やっぱり」
私はタルトを一口食べた。
「私も最近忙しいのよ」
「存じております」
「授業が増えたし、お茶会も減ったけど、今度は別の予定が入るし」
「それも存じております」
「……なんでも知ってるのね」
「お嬢様の予定を把握するのも仕事ですから」
「そういうところ、ずるいわ」
「何がです?」
「私が何をしてるかは全部知ってるくせに、自分のことは全然話してくれないもの」
「私の予定を聞いて楽しいですか?」
「楽しいわよ」
「そうですか?」
「もちろん。好きな人のことだもの」
アルヴィンは少し考えてから、紅茶を一口飲んだ。
「では、今日は父から頼まれていた書類の整理をしておりました」
「それは仕事でしょう?」
「はい」
「つまらないわ」
「お嬢様が聞いたのでしょう」
「もっと面白い話はないの?」
「そうですね……」
アルヴィンは少し考えるように視線を上げた。
「今朝、庭師が噴水の修理をしているところに猫が入り込みまして」
「猫?」
「ええ。追い出そうとしたら、庭師の帽子を奪って逃げたそうです」
「ふふっ」
思わず笑ってしまう。
「なにそれ」
「私も見てはいませんが」
「見てないの?」
「ええ」
「じゃあ、どうして知ってるの?」
「庭師が大変困った顔で報告に来ましたので」
「ふふふ……」
笑いが止まらない。
「アルヴィン、そういう話をもっとしてよ」
「どんな話です?」
「今日みたいな、どうでもいい話」
「どうでもいい話ですか」
「そう」
私は笑いながら答えた。
「そういうのがいいの」
アルヴィンは少しだけ目を細めた。
「では、覚えておきます」
「約束よ」
「はい」
それからしばらく、私たちは庭のことや屋敷のこと、最近届いた手紙のことなど、とりとめのない話をした。
レスターのことも少し話した。
「そういえば、レスターが今度王都の菓子屋に連れていってくれるって」
「それはよかったですね」
「あなたも来る?」
「私がですか?」
「だって護衛でしょう?」
「レスター様とのお出かけに、私までついていくのですか?」
「嫌?」
「嫌というわけではありませんが……」
アルヴィンがほんの少し考えるように黙る。
「三人で出かけるのは、少々珍しいですね」
「そう?」
「ええ」
「いいじゃない、今度三人で行きましょうよ」
「考えておきます」
「絶対来てね」
「善処いたします」
「それ、来ないときの返事でしょう」
「よくご存じで」
「もう!」
また笑った。
そんなやり取りをしているうちに、気づけば約束の一時間はとうに過ぎていた。
窓の外を見ると、午後の光が少し傾いている。
「……もうこんな時間」
「そろそろ戻りませんと」
「もう少し」
「お嬢様」
「あと少しだけ」
私はカップを両手で包んだ。
「今日は何もないんだもの」
アルヴィンは何も言わなかった。ただ、急かすこともせず、私の向かいで静かに紅茶を飲んでいる。それが嬉しかった。
何か特別なことをしたわけじゃない。遠乗りをしたわけでも、どこかへ出かけたわけでもない。ただ、お茶を飲んで、くだらない話をして、笑っただけ。
けれど、私はこういう時間が好きだった。アルヴィンと一緒にいる時間なら、何をしていても楽しい。
「ねえ、アルヴィン」
「はい」
「好きよ」
「ありがたいことです」
「またこうやってお茶しましょうね」
「……ええ」
アルヴィンは静かに頷いた。
「お嬢様の予定が空いているときにでも」
「じゃあ、また空けてもらうわ」
「家庭教師の先生に怒られますよ」
「そのときはアルヴィンがなんとかして」
「無茶をおっしゃいますね」
私は笑った。
この時間が、これからもずっと続くのだと思っていた。少なくとも、私はそう思いたかった。




