耳飾り
あの日、アルヴィンに「可愛いですよ」と言われてから、私の気分は少しだけ上向いていた。もちろん、お父様と仲直りしたわけではない。翌朝になっても、その次の日になっても、私たちの間にはどこかぎこちない空気が漂っていた。食事の席で必要な話はするし、顔を合わせれば挨拶もする。それでも、以前のように何気ない会話を交わすことはなく、私も意地になって自分から話しかけようとはしなかった。
本当は、いつまでもこんなふうにしていたくない。けれど、だからといって私から折れるのも悔しかった。何より、あの人が私とアルヴィンのことをどう考えているのか、まだ納得できていなかったのだ。
そんなある日、私はお父様の執務室に呼ばれた。何か用事があるのなら、いつもは食事の席や授業の合間に声をかけてくる。わざわざ執務室まで呼び出すということは、何か改まった話なのだろう。先日の口喧嘩が頭をよぎり、私は少しばかり身構えながら扉を叩いた。
「入りなさい」
中へ入ると、お父様は執務机の向こうで書類に目を通していた。私が向かいの椅子に腰を下ろすまで待ってから、ようやく顔を上げる。
「フィオナ」
「何?」
自分でも驚くほど、そっけない返事になった。お父様はそれを咎めるでもなく、机の上に置いていた書類を脇へ寄せた。
「先日の話だが」
その一言で、背筋がぴんと伸びた。また、あの話だ。そう思って身構えた私に、お父様は思いがけない言葉を告げた。
「王宮の婚約披露会には、アルヴィンを連れて行っていい」
「……え?」
聞き間違いかと思った。
「だから、アルヴィンを連れて行っていいと言った」
「本当に?」
「同じことを二度も言わせるな」
いつもの調子で返され、私はようやく自分の聞き間違いではなかったのだと理解した。
アルヴィンを連れて行っていい。つまり、王宮での婚約披露会に、いつもどおり彼をそばに置いておけるということだ。嬉しさがこみ上げる一方で、どうして急に許してもらえたのかという疑問も浮かんだ。先日はあれほど厳しいことを言っていたのに、いったい何があったのだろう。どうして?と思わず尋ねかけて、私は慌てて口を閉じた。
もし、お父様が何か説明を始めて、その途中で私が余計なことを言ってしまったら?あるいは、話し合った結果、やはり連れて行くのはやめよう、なんてことになったら?せっかく許してもらえたのに、自分から蒸し返すなんて愚かにもほどがある。私は咳払いで誤魔化して、何事もなかったように頷いた。
「わかったわ」
「……妙に聞き分けがいいな」
お父様が訝しげに目を細める。
「だって、嬉しいもの」
私はにっこりと渡ってそう答えた。それだけは、素直な気持ちだった。
お父様はまだ何か言いたそうだったけれど、結局、それ以上は何も口にしなかった。私は余計な質問をすることなく、機嫌よく執務室を後にした。
王宮の婚約披露会は、もう数日後に迫っている。それまでに準備しなければならないことは山ほどあったけれど、私はそのまま自室へ戻ることもせず、まっすぐアルヴィンの執務室へ向かった。
扉を開けると、彼は机に向かい、何やら書類を整理しているところだった。
「アルヴィン!」
勢いよく声をかけると、彼は手を止めて顔を上げた。
「どうなさいました、お嬢様」
「あなた、来てくれるの?」
「……はい?」
「王宮よ。婚約披露会。私と一緒に来てくれるんでしょう?」
アルヴィンは一瞬だけ目を瞬かせたものの、すぐにいつもの落ち着いた表情に戻った。
「そのように旦那様から言い付けられております」
「本当なのね!」
「はい」
「よかった……!」
思わず笑みがこぼれた。
お父様とのことも、先日の口喧嘩も、まだ何一つ解決したわけではない。アルヴィンとの関係だって、私が一方的に好きだと言い続けている状況から変わってはいない。それでも、王宮にはアルヴィンが来てくれる。
私が嬉しそうにしているのを見て、アルヴィンは何か言いたげに口元を動かした。けれど、結局は何も言わず、手元の書類へ視線を戻してしまう。
「何よ。何か言いたいことがあるなら言いなさいよ」
「いえ。お元気になられたようで何よりです」
「……っ」
そんなふうに言われると、また顔が熱くなる。私は何か言い返してやろうと口を開きかけたものの、その前に廊下の向こうがにわかに騒がしくなった。
何事かと二人で扉のほうを見ていると、ほどなくして使用人がやって来た。
「お嬢様、先ぶれが参りました」
「先ぶれ?」
「レスター様からです」
「レスター?」
思いがけない名前に、私は首を傾げた。
レスターが訪ねてくる予定などなかったはずだ。使用人によれば、レスターはすでにこちらへ向かっているらしい。渡したいものがあるので、少しだけ時間をもらいたいとのことだった。しかも、すぐに帰るつもりなので、普段着のままでも構わないという。
「……何かしら」
急な訪問に戸惑いながらも、私はレスターを待つことにした。
****************
先ぶれが到着してから十五分もしないうちに、本人が屋敷へやって来た。玄関先まで出迎えた私は、彼の姿を見るなり、思わず呆れたような声を出してしまった。
「まあ、レスター。公爵邸を訪ねるのには、少々雑ではなくて?」
わざと慇懃な口調で言ってみせると、レスターは悪びれる様子もなく笑った。
「はは、すまない。急に思い立ってね。今日しか渡すタイミングがなかったんだ」
「だからって……いくら先ぶれがあったと言っても、遠縁でもなければ今頃お父様に何を言われていたかわからないわよ」
「はは、違いないな。まあでも悪い話ではないから、許してくれると嬉しい」
レスターは全く悪びれずにそう言って笑った。全く、彼のこういうところは見習いたいくらいだ。
「それで、渡したいものって何?」
私が尋ねると、レスターは懐から小さな箱を取り出した。
「これを」
「……?」
受け取った箱は、手のひらにすっぽりと収まる、小ぶりな赤いベルベットのものだった。柔らかな光沢を帯びた深紅の布地に、金色の留め金が小さく輝いている。
指先で留め金を外して蓋を開けると、中にはエメラルドと真珠をあしらった耳飾りが一組、そっと収められていた。深い緑の石を中心に、いくつもの小さな真珠が添えられている。光を受けたエメラルドは鮮やかに輝き、周囲の真珠がその色をいっそう引き立てていた。
思わず見入ってしまうほど、綺麗な品だった。
「これを……私に?」
「ああ」
「どうして?」
尋ねながらも、頭の中にはいくつもの疑問が浮かんでいた。
こんなに立派な耳飾りを、どうして突然私に贈るのだろう。私が不思議そうに顔を上げると、レスターは案の定、こちらの考えを見透かしたように肩をすくめた。
「たまたま見かけてね」
「でも、こんな高価なもの……受け取れないわ」
「そう言うと思ったよ」
あっさり返され、私はますます困惑した。
「だったら、どうして贈るのよ」
「だから、理由を説明しようと思っていたんだ」
レスターは私の手元にある箱を指し、妙に真面目な顔で言った。
「君にとって、俺は都合がいいだろう?」
「……どういう意味?」
「虫除けとして」
「虫除け?」
「そう」
レスターは当然のことのように頷いた。
「王都の夜会で、君に近づいてくる男は多いだろう?」
「……まあ、そうね」
先日の社交シーズンを思い返せば、否定のしようもなかった。私のところには、今も結婚相手としての打診や釣り書きが届いている。お父様がその中から相手を選ぶようにと口にするたび、私は憂鬱な気持ちになっていた。
「それなら、上手く使うべきだ」
レスターは耳飾りを指差した。
「俺は今日、わざとよく目立つようにしてこれを買った。君に贈るとは明言しなかったが、淡い桃色の髪の娘には何が似合うかと、わざわざ店員を引き留めて聞いてきたんだ。未婚の女性が男性から贈られた宝飾品を身につける意味くらい、君もよく知っているだろう?まあ、今頃は噂になって居るだろう、俺が買った耳飾りを君が身につけるかどうか」
私は改めて耳飾りを見つめた。未婚の女性が男性から贈られた装飾品を身につけるのは、その男性と親しい関係にあることを示すことくらい、恋愛ごとに疎い私でも知っている。レスターのいうことが事実なら、少なくとも、これを身につけて居るときに気軽に声をかけてくる相手は減るだろう。
「……いい虫除けになるよ」
「でも、それじゃあレスターには何の得もないじゃない」
私がそう言うと、彼はあっさりと肩をすくめた。
「それが、あるんだ」
「何?」
「俺もまだ結婚したくないから」
「……」
あまりにも即答だったので、私は一瞬、言葉を失った。
「家からうるさく言われていてね」
「それで、これを?」
「そういうこと」
「……薄情ね」
「自分でもそう思うよ」
レスターは悪びれるどころか、楽しそうに笑っている。どうやら、彼の家でも結婚の話が持ち上がっているらしい。けれど、レスター自身はまだ結婚する気がない。そこで、私と親しくしていることを都合よく利用しようというわけだ。
「まあ、君と俺が互いに都合よく使えばいい。君は俺を虫除けに。俺は君を、結婚を急かされないための口実に」
「……本当に、それだけ?」
念のために尋ねると、レスターは不思議そうに首を傾げた。
「それ以上何かあるように見える?」
「見えないわ」
即答すると、彼はとうとう声を上げて笑った。
あまりにも明け透けな物言いだ。こちらがあれこれ考えていたのが馬鹿らしくなってくる。私は箱の中の耳飾りへ視線を落とした。
深い緑のエメラルド。王宮で着る予定のドレスと同じで、レスターの瞳の色によく似ている。確かに、虫除けとしてはかなり強力だろう。
「……わかったわ」
私は箱を閉じ、レスターへ顔を向けた。
「それなら、ありがたくいただくことにするわ」
「そうしてくれ」
「その代わり、ちゃんと虫除けとして働いてもらうわよ」
「もちろん」
私は箱を胸元に抱えるようにして、彼を見上げた。
「いいわ。戦友ということね」
「戦友?」
「そう。お互いの結婚を急かされないように協力するの」
レスターは少し考えるような顔をしたあと、にやりと笑った。
「悪くないな」
そう言って、満足そうに頷く。
私たちは恋人ではないし、互いに恋愛感情を抱いているわけでもない。それでも、結婚という面倒な問題に関しては、妙に利害が一致しているらしい。そう考えると、今までよりも気楽に彼と付き合える気がした。
「じゃあ、俺は帰るよ」
「え?」
あまりにもあっさりとした言葉に、私は思わず聞き返した。
「もう帰るの?」
「ああ。渡すものは渡したからね。長居するつもりはなかったんだ」
本当に、贈り物を渡すためだけに来たらしい。私はそのまま、彼を玄関まで見送ることにした。
「じゃあ、また王宮で」
「ああ。ドレス、楽しみにしてるよ」
「レスターもね」
「俺の服なんて見ても面白くないだろう」
「そんなことないわ」
私は笑って首を振った。
「私、あのドレスを気に入って居るのよ。いい色だわ、この耳飾りも」
そう告げると、レスターは少しだけ目を丸くした。けれど、すぐにいつもの笑顔に戻る。
「それなら、僕もそれにちゃんと似合うようにしておくよ」
「ええ。楽しみにしてるわ」
レスターは軽く手を上げると、そのまま馬車へ向かっていった。
本当に、嵐のような人だ。突然やって来て、贈り物を渡し、こちらが考える暇もないくらい好き勝手に話して、あっという間に帰ってしまう。
馬車が門を出ていくのを見送ってから、私はようやく息を吐いた。
「……変な人」
思わず笑いながら、私は箱の蓋を開いた。中で、耳飾りがきらりと光る。深い緑のエメラルドと、周りに添えられた白い真珠。窓から差し込む光を受けるたび、小さな石がきらきらと輝いていた。
私はそっと耳飾りを持ち上げ、光にかざしてみる。あの深い緑のドレスに合わせたら、きっとよく似合う。裾に施された銀糸にも、髪に飾る緑の石にも、きっと。
少し前までは、王宮の婚約披露会を思うだけで憂鬱になっていた。お父様とのことも、結婚のことも、アルヴィンとのことも、考えれば考えるほど気が重くなるばかりだったから。それでも今は、完成したドレスを着て、この耳飾りをつけた自分の姿を鏡で見てみたいと思っている。
王宮にはアルヴィンも来てくれる。それに、レスターという頼もしい戦友もできた。何もかもが解決したわけではないけれど、少なくとも、数日前よりはずっと楽しみになっていた。




