雨の帰り道
昼食を終えて、しばらく木陰で休んだあと、私たちはもう一度馬に乗るつもりでいた。せっかく遠くまで来たのだから、屋敷へ戻る前にもう少し走りたい。そんな話をしながら片付けをしていたとき、ふと空を見上げると、いつの間にか遠くに黒い雲が広がっていた。
さっきまで柔らかな日差しが降り注いでいたのに、雲は少しずつこちらへ近づいているようだった。風もわずかに冷たくなっている。
「じきに雨が来るかもしれないね」
レスターが空を見上げて言った。
「ええ……そうみたい」
「残念ですが、今日はここまでにしたほうがよさそうですね」
「そうね。降り出す前に戻った方がいいわ」
名残惜しさを感じながら、私たちは予定を切り上げて屋敷へ戻ることにした。アルヴィンは手早く荷物をまとめると、馬にもう一度水をやり、その間に鞍を付け直した。そうして馬に乗り寄り道をせずに戻ったが、領地の屋敷へ近づく頃には、空はすっかり灰色になっていた。
「あの水車小屋からもう少し先に行ったところに広場があるっていうから、楽しみにしてたのに」
そう言うと、レスターが笑った。
「馬に乗るの、本当に好きなんだね」
「大好きよ。もっと乗る時間があればいいのに」
「そうか、また誘うよ。そうじゃなくても、また近いうちに会おう」
「え?」
思わず顔を向けると、レスターはいつものように気楽な笑顔を浮かべていた。
「王宮の婚約披露会まで、まだ少し時間があるし。それに、衣装合わせもしないといけないだろう?」
「ああ……そうね」
王宮での婚約披露会。そういえば、私たちが次に会う約束としては、それが一番自然なのかもしれない。
「そうしましょう」
そう答えると、レスターは満足そうに笑った。
やがて私たちは領地の屋敷へ到着した。馬から降り、出迎えに来ていた使用人たちに迎えられる。私は屋敷の中へ入り、乗馬服から元のドレスへ着替え、髪を整えてもらった。支度を終える頃には、空はますます暗くなっており、夕方を通り越して夜になってしまったようだった。
「お嬢様、そろそろ」
アルヴィンに促され、私は玄関へ向かった。私とアルヴィンが馬車へ乗り込むと、御者が馬を進める。領地の屋敷を離れてしばらくしたところで、窓に小さな雨粒が当たった。ぽつ、ぽつ、と控えめだった音は、やがて少しずつ大きくなっていく。
「降ってきましたね」
向かいに座ったアルヴィンが、窓の外へ目を向けた。
「ええ。でも、屋敷を出てからでよかったわ」
「本当に。馬での帰り道で降られなくて何よりですね」
馬車の屋根を叩く雨音が、少しずつ激しくなっていく。
私は窓の外を眺めながら、今日一日のことを思い返していた。久しぶりに思いきり馬に乗れたこと。丘を越えて、木陰で昼食を食べたこと。子供の頃の話をして、レスターにさんざん笑われたこと。それから――また近いうちに会おう、と言われたこと。
そんな私を見ていたのか、アルヴィンがふと口を開いた。
「楽しかったようですね」
「ええ。すごく楽しかったわ」
素直に答えると、アルヴィンは「そうですか」と静かに頷いた。それから、少し間を置いて、
「レスター様とも、気が合うようですね」
と続けた。
「……そう?」
思わず顔を上げた。なんだか、含みを感じる言い方だったのだ。
「何よ、その言い方」
そう聞いてみても、アルヴィンはいつものなんでもない顔をしている。
「何かおかしいことを申し上げましたか?」
「だって、なんだか変だったもの」
「そうでしょうか」
「そうよ」
じっと見つめてみても、アルヴィンは困ったように笑うことさえしなかった。ただ、窓の外へ一度だけ視線を向ける。その横顔はいつもと変わらない。
「……楽しかったのは、あなたと遠乗りができたからよ」
私がそう言うと、アルヴィンはこちらを見た。雨音に紛れるほどのわずかな間だった。それから、ふっと目を逸らす。
「私の立場では、お嬢様を遠乗りに連れて行くことはできませんから」
声はいつも通りだった。けれど、言葉を選ぶようにほんの少し間を置いてから、
「レスター様に感謝しないといけませんね」
と続けた。
「……そうね」
私は窓の外へ視線を向けた。
雨はもう、かなり強くなっている。アルヴィンはそれ以上何も言わず、いつものように静かに座っていた。
私は気づかなかった。その言葉を口にしたとき、彼の指先が膝の上でほんのわずかに強く握られていたことにも。すぐに力が抜かれ、何事もなかったように戻ったことにも。
「でも、あなたが一緒だったから楽しかったのよ」
もう一度そう言うと、アルヴィンはまたこちらを見た。けれど、その目に浮かんだものを読み取るより先に、いつもの穏やかな表情へ戻ってしまう。
「そうおっしゃっていただけるなら、護衛としては何よりです」
「……もう」
またそうやって、うまく逃げる。私は少しだけ頬を膨らませた。
「変なの」
「何がでしょう?」
「なんでもない」
私がふいと窓の外へ顔を向けると、アルヴィンはそれ以上何も言わなかった。
馬車の屋根を激しく叩く雨音だけが、途切れることなく続いている。やがて見慣れた王都の街並みが、雨に煙る窓の向こうに現れた。
屋敷へ近づく頃には、雨はすっかり本降りになっていた。馬車が玄関前で止まる。扉が開いた瞬間、冷たい雨の匂いが流れ込んできた。
「……戻って正解ね」
思わず呟くと、アルヴィンが先に馬車を降り、こちらへ手を差し出した。
「ええ。今日は運がよかったようですね、お嬢様」
私はその手を取って馬車を降りる。ほんの少し前まで馬を走らせていたのが嘘みたいに、冷たい雨が屋敷の前を白く煙らせていた。




