フィオナ嬢(レスター目線)
フィオナ嬢と顔を合わせたとき、正直なところ、すぐには昔の記憶と結びつかなかった。
もちろん、名前は知っている。父の遠縁の娘だということもあるし、そうでなくとも、貴族の家に生まれれば公爵家の一人娘の名前くらいは知っていて当たり前だ。そして王都に出てくるようになってからは、社交界で彼女の噂を耳にすることもあった。
曰く、淡い桃色の髪を持つ、まるで人形のような令嬢だとか。
曰く、近頃は婚姻の申し込みが絶えないほどの美貌だとか。
そういう話を聞くたびに、どこか遠い世界の人間の話のように思っていた。そして、実際に目の前に現れたフィオナ嬢を見たときも、まず思ったのは――綺麗だ、ということだった。
淡い桃色の髪は光を受けると柔らかく色を変え、その毛先には薄い青が混じっている。肌は驚くほど白く、細い身体に仕立ての良いドレスがよく似合っていた。目も珍しい色をしている。淡い紫に青が溶け込んだような瞳で、こうして大人しく座っていれば、確かに人形と間違えそうになる。それに、眉がわずかに下がっているせいか、何もしていなくてもどこか困ったような、頼りなげな表情に見えるのだ。今にも泣き出してしまいそう、とまでは言わないが、初めて会う相手なら、気弱でおとなしい令嬢だと思っても不思議ではない。
実際、俺も最初はそう思いかけた。けれど、しばらく話しているうちに、どうにも引っかかった。
この感じ。何か知っている気がする。
目の動かし方とか、何か気に入らないことがあったときにほんの少しだけ眉を寄せるところとか。そういう細かなところに、昔見た子供の面影が残っているような気がした。
そして、口から出たのがあの言葉だった。
「フィオナ嬢は、子うさぎみたいに裏山を駆け回るような子ではありませんでしたか?」
言ったあと、父君が深いため息をついた。
「見た目はこれだが、中身は子うさぎのままだ」
その瞬間、ようやく思い出した。
ああ。この子だ。俺が九歳の頃、辺境伯領へ遊びに来た公爵家の小さな令嬢。
やたら元気で、何にでも興味を持って、俺が裏山へ行くと言えば当然のようについてきた。そして、見た目からは想像もつかないくらい、よく走った。たしか、花を見つけたとか、珍しい鳥がいたとか、そんな理由だったと思う。
俺も子供だったから、面白がって先を走った。フィオナ嬢も負けじと追いかけてきて、気がつけば二人して山の中を駆け回っていた。最後には彼女のドレスの裾が枝に引っかかって、盛大に破れた。その後、俺も一緒に叱られた。
そこまで思い出したところで、目の前の令嬢が「私、あのときものすごく怒られた気がするわ」と呟いたものだから、思わず笑ってしまった。どうやら、彼女も少しずつ思い出してきたらしい。
十年前の記憶なんて、俺にとってもずいぶん遠いものだ。それなのに、こうして話していると、途切れ途切れだった記憶が少しずつ繋がっていく。
あの頃のフィオナ嬢は、小さな身体で俺の後ろをついてきていた。
「では、せっかくだ。二人で少し散歩でもしてきなさい」
公爵様の言葉で、俺たちは屋敷の庭へ出ることになった。どうやら親睦を深めろ、ということらしい。随分と気軽な話だと思った。婚姻相手を探している娘と、その候補として呼ばれた男を、庭へ二人で放り出す。公爵家というのは、もっと慎重に事を運ぶものだと思っていたが、どうやら俺の想像よりずっと大雑把なところもあるらしい。
隣を歩くフィオナ嬢は、最初のうちは機嫌よく庭を眺めていた。けれど、初夏の陽射しが思ったより強かったのだろう。少し歩いたところで空を見上げ、それから、ほんの少しだけ眉を寄せた。
暑いのだろうな。
俺の育った辺境では、この程度の日差しなら珍しくもない。山や森の中を歩くことも多かったから、日差しにはそれなりに慣れている。けれど、フィオナ嬢はそうではないだろう。
暑いと文句を言うほどではない。ただ、見るからに「暑い」と顔に書いてある。俺は少し笑いそうになった。
なんだ、昔と変わっていないじゃないか。あの時、六歳のフィオナ嬢は、疲れたときや嫌なことがあったとき、ずいぶんわかりやすい顔をしていた。大人にかわるがわる叱られていた時にはずっと眉間に皺を寄せて、頬を膨らませて睨みつけていた。本心はどうあれ、反省しているそぶりを見せればいいのにと思ったのを覚えている。あの時も今も、あまりに正直に顔に出るのを見ると、つい吹き出してしまいそうになる。
俺は笑いを誤魔化すために咳払いをすると、近くにいたメイドへ声をかけた。
「日傘をお願いできますか」
すぐに持ってきてもらった日傘を受け取り、フィオナ嬢へ差し出す。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
日傘の下に入った途端、彼女の表情が少しだけ緩んだ。
「……涼しい」
「それはよかったです」
俺はそのまま傘を持って歩いた。日傘なんて持つのは初めてだったが、別に難しいことでもない。ただ、フィオナ嬢の小さな頭にきちんと影が落ちるように、高さと角度を合わせるだけだ。
すると、隣から視線を感じた。横目で見ると、フィオナ嬢はもうこちらを見てはおらず、ただ何やら感心したような顔をしている。おおかた、「意外と気が利くな」とでも思っているんだろう。その表情が妙にわかりやすかったので、俺はつい口元を緩めた。
「なんでも顔に出ますね、フィオナ嬢」
「えっ」
彼女は慌てて頬に手を当てた。
「出ていましたか?」
「ええ」
「何がです?」
「それは秘密です」
「気になります」
「ふふ」
思わず笑うと、フィオナ嬢は少しだけ唇を尖らせた。
昔も、こんな顔をしていた気がする。本人は大人になったつもりなのだろうが、まるで小さな女の子のようだ。確かに、六歳の頃とは比べものにならないくらい綺麗になった。立ち姿も、話し方も、貴族令嬢としてきちんと身についている。けれど、時折見せる表情があの頃のままだ。
「レスター様は、昔からそうだったのですか?」
「何がです?」
「人の顔を見て、勝手に楽しそうになさるところです」
思わず笑ってしまった。
「どうでしょう。昔のことはあまり覚えていませんから」
そう答えたものの、実際には少しずつ思い出していた。
小さな手。
淡い色の髪。
山道を走る足音。
そして、破れたドレス。
あの頃の俺は、まさか成長したあの子とこうして庭を歩くことになるなんて考えもしなかった。
隣を歩くフィオナ嬢を見る。日傘の下では、淡い髪が初夏の光を柔らかく弾いていた。野山を駆け回るとはとても思えない姿だ。
「……レスター様」
「はい?」
「私、もう子うさぎではありませんからね」
真面目な顔でそう言われて、俺は少し考えた。確かに、今の彼女を見て「子うさぎ」と呼ぶ人間はいないだろう。けれど、俺の記憶に残っているのは、山道を走り回っていた小さな姿だ。
「そうですか?」
「そうです」
「では、今度は何でしょう」
フィオナ嬢は少し考えてから、胸を張った。
「……立派な淑女、でしょうか」
俺は思わず笑いそうになったが、本人はいたって真剣らしい。だから、できるだけ真面目な顔で頷いた。
「なるほど」
それから、彼女を見下ろす。
「淑女というものがこんなに素直に感情を出すとは知りませんでした」
「もう!」
声を上げたフィオナ嬢に、俺はとうとう笑ってしまった。昔と同じだ。少なくとも、こうしていると十年前に戻ったような気がする。
ただ一つ違うのは、あの頃は俺の後ろを走っていた小さな子が、今は俺の隣を歩いていることだった。




