レスター
レスターが屋敷を訪れたのは、それから数日後のことだった。
辺境伯家の次男であるレスター・ヴァルターは、王都で暮らす貴族の子息とは少し違った雰囲気をまとっていた。辺境伯領は王国の北東に広がる、山や森の多い土地だと聞いている。広大な領地の中には手つかずの森も多く、狩りや乗馬をはじめ、自然の中で過ごすことが日常のような土地だ。幼い頃からそこでのびのびと育ったというレスターは、私がこれまで社交界で見てきた男性たちとは、ずいぶん印象が違っていた。
まず、とにかく大きい。
私より三つ年上だから、今は十九歳。アルヴィンより一つ年上になる。けれど、年齢以上に大人びて見えるのは、その体つきのせいだろう。背が高く、肩幅もしっかりしていて、細身の貴族令息たちとは比べものにならないほどがっちりしている。日焼けした肌には健康的な色があり、燃えるような赤毛と鮮やかな緑の瞳が、その顔立ちをいっそう印象的にしていた。
そんな人が、私の父の執務室でソファに腰を下ろしている。私は向かいの椅子に座りながら、なんとなく落ち着かない気持ちで彼を眺めていた。
レスターとは、幼い頃に一度か二度会ったことがある――はずだ。はず、というのは、お互いにその頃の記憶があまり残っていないからだ。顔を見たことがあるような気がする。名前を聞いたこともある。けれど、それ以上となると、霞がかかったようにぼんやりしていた。ただ、レスターは私の顔をしばらく見つめたあと、ふと首を傾げた。
「……はて」
「何?」
思わず聞き返すと、レスターは困ったように眉を寄せ、それから私の顔と、父の顔を交互に見た。
「フィオナ嬢は……」
そこで一度言葉を切る。
「子うさぎみたいに、裏山を駆け回るような子ではありませんでしたか?」
「…………」
私は固まった。
父も一瞬黙り、それから深々とため息をついた。
「見た目はこれだが、中身は子うさぎのままだ」
「お父様!」
思わず声を上げると、父は何食わぬ顔で書類に目を落とした。レスターは「ああ」と納得したように笑った。
「やっぱりそうでしたか」
「やっぱりって何ですか!」
「いや、先ほどからどうも既視感があると思っていたんです。けれど、記憶の中のフィオナ嬢は、もっとこう……」
レスターが片手を胸の前で振る。
「走っていました」
「…………」
嫌な記憶が、ほんの少しだけ蘇った。緑の多い丘。土の匂い。木々の間から差し込む夏の日差し。大きな声で笑って、誰かを追いかけて――。
それから。びり、と何かが裂ける音。
「……ドレス」
「え?」
「私、ドレスを破った気が」
レスターの顔がぱっと明るくなった。
「そう、それです!」
「……覚えているんですか?」
「全部ではありませんけど。たしか、裏山を走っていて、どこかに引っかけたんですよね」
私の中にも、ぼんやりとした光景が浮かんできた。
六歳だった私は、レスターのいる辺境伯領へ遊びに行った。広い庭を走り回るだけでは飽き足らず、いつの間にかレスターについて裏山へ入り、見たことのない草花や木の実を追いかけていた。たしかレスターが「こっちだ」と先を走って、それを私が必死になって追いかけて。気がついたら、ドレスの裾が枝に引っかかってーーそして盛大に破れた。
そのあと、当然のように母に叱られ、父にも叱られ、辺境伯家の大人たちにも「公爵令嬢が山を走り回るものではありません」と散々言われた。……そこだけは、なんとなく覚えている。
「……私、あのときものすごく怒られた気がするわ」
「僕も一緒に怒られたと思います」
「あなたも?」
「私が先に走っていたので」
レスターは悪びれずに笑った。
「フィオナ嬢が楽しそうについてきたので、てっきり平気なのかと」
「私が六歳の女の子なのを忘れていたのですね」
「僕も九歳でしたからね」
「それはそうですね……」
「今のフィオナ嬢には、とても森の中を走ろうとは誘えませんね」
言われて思い出した記憶の中、木々の隙間から木漏れ日が落ちる夏の森を、赤毛の少年がこちらを振り向きながら走っている。今目の前にいるレスターはその記憶のまま、日に焼けた肌に赤い髪、がっしりとした体つきをしていて、いかにも辺境の土地を駆け回って育った青年という感じなのに、どうやら私は六歳の頃よりは上品に見えるようだ。
「でも、面白いですね」
レスターが私を見て、少しだけ目を細めた。
「こうして見ると、あのときの面影があります」
「どこに?」
「目とか。あと……」
彼は私の姿を眺め、それから少し考えるように首を傾げた。
「じっと座っているのが似合わないところでしょうか」
「失礼ね!」
反射的に言い返すと、レスターは声を上げて笑った。父まで小さく息を吐いている。
「ほらな」
「何がですか!」
「何も変わっていない」
「変わっているわよ!」
私は思わず立ち上がりかけ、それからはっとして座り直した。……今のは、少し子供っぽかったかもしれない。けれどレスターは気にした様子もなく、楽しそうに笑っていた。
「確かに、見た目はずいぶん変わりましたね」
「当然です。私ももう十七歳になるんですもの」
「そうでした。失礼しました」
そう言ってレスターは素直に頭を下げた。その仕草には、王都の貴族令息たちのような気取ったところがあまりない。それが妙に新鮮だった。私はふと、父がこの人を私の護衛役――もとい、王宮への同伴者として選んだ理由が少しだけわかったような気がした。
「それで、レスター。君もお父上から聞いていると思うが」
父がようやく話を本題へ戻した。
「君には、今度の王宮の夜会でフィオナの相手をしてもらいたい」
「はい。承知しております」
レスターがこちらを見る。
「喜んでお引き受けしますよ」
「ありがとうございます」
私は礼を言った。そのくらいは、きちんとした令嬢らしくできる。
けれど父は、その先まで勝手に話を進めようとする。
「それから――」
「お父様」
私はすぐに遮った。
「私、王宮までエスコートしてもらう人をお願いしただけですからね」
「わかっている」
「本当に?」
「本当にだ」
父は少しだけ苦笑した。レスターも私と父を見比べて、面白そうに笑っている。どうやらこの人も、私の父が何を考えているのか、なんとなく察しているらしい。
私は小さくため息をついた。
こうして、幼い頃に裏山を駆け回ったという、ほとんど記憶にも残っていなかった男の子は、いつの間にか、立派な美丈夫になって私の前に現れた。そして私は、どうやらその人と一緒に王宮へ行くらしい。
……人生って、本当に何が起こるかわからない。




