エスコート役
気がつけば、あの雪の日から半年以上が経っていた。
あの冬、窓の外を埋め尽くしていた雪はやがて溶け、庭の木々には柔らかな若葉が芽吹いた。雪解け水の流れる音が聞こえるようになった頃には、庭師たちが冬の間に傷んだ花壇を整え始め、春の終わりには色とりどりの花が屋敷の庭を彩った。
そうして春が過ぎ、陽射しが少しずつ強くなっていく。窓を開ければ、緑の匂いを含んだ風がカーテンを揺らす。昼間は薄手のドレスでも暑さを感じる日が増え、夕暮れには庭から夏の虫の声が聞こえてくるようになった。
アルヴィンとの関係が、その間に何か変わったのかと聞かれれば、何も変わっていない。本当に、驚くほど何も。
祝祭の日にもらったラベンダーのサシェは、今でも私の部屋に置いてある。最初の頃は扉を開けるたびに優しい香りが漂ってきたけれど、季節が変わるにつれて少しずつ香りは薄れていった。それでも私は捨てる気にはなれず、小さな飾り棚の上に置いたままにしている。あんな贈り物をくれたのだから、少しくらいは期待してもいいのではないかと思ったこともある。もしかしたら、アルヴィンも私のことを――なんて。
けれど、そんな淡い期待は、日常が始まればあっさりと消えていった。
「お嬢様、こちらを」
「ありがとう」
「それから、午後の家庭教師は二時からです」
「わかってるわ」
「夕方には奥様と王都の仕立屋がいらっしゃいます」
「……それも知ってる」
「それは失礼しました」
いつものアルヴィン。いつもの距離。朝になれば予定を伝えられ、出かけるときには身支度を整えられ、戻ればその日の出来事を聞かれる。私が「好き」と言えば、「はいはい」と返されるし、少しでも隙を見せれば「お嬢様、もう少し淑女らしく」と注意される。私が何か新しいことを期待しているなど、知ったことではないという顔をしている。
そして、アルヴィンとの関係が何も変わらない一方で、変わっていったものもある。縁談だ。
十五歳で社交界に出たばかりの頃は、まだ「ご挨拶を兼ねて」という程度のものだった。お茶会で何度か顔を合わせた家から、季節の花と一緒に小さな贈り物が届いたり、両親宛てに「今度、ぜひお嬢様にも我が家の息子とご同席いただければ」などという手紙が届いたりする。私はそれを見ても、まだどこか他人事だった。けれど、この春頃からだろうか、それが少しずつ変わっていった。
まず、朝食の席でお父様が釣り書きを持ち出すようになった。
「フィオナ、これを見てみなさい」
「また?」
「またとはなんだ」
厚手の紙に家名と紋章が印刷され、その下には相手の年齢、爵位、領地、家族構成、学歴、現在の役職などが細かく記されている。最初のうちは一枚だった。それが二枚になり、三枚になり、いつの間にか朝食の席の端に、何枚もの書類が積まれるようにな理、そのうち肖像画まで添えられるようになった。
「この方は王都の学院を優秀な成績で卒業していて――」
「へえ」
「領地経営にも熱心で、今年から父君の補佐を――」
「そう」
「それに、趣味は乗馬と読書だそうだ」
「……そう」
私はパンにバターを塗りながら、肖像画を眺める。立派な服を着た青年が、立派な姿勢でこちらを見つめている。けれど、肖像画を見たところで、私にはその人がどんな声で笑うのかも、怒ったときにどんな顔をするのかも、何を考えているのかもわからない。
「この方はどうだ?」
「わからないわ。知らない人だもの」
「会えばいいじゃないか」
「会ったからってどうやって結婚を決めるの?この方は本当に私と結婚したいのかしら。会ったこともないのに」
お父様は深いため息をついた。それでも釣り書きが届くたびに、私は一度は目を通さなければならなかった。母も時々、私の部屋へ肖像画を持ってくる。
「この方、穏やかそうよ」
「肖像画だけで性格がわかるの?」
「雰囲気よ、雰囲気」
「私には全部同じに見えるわ」
「まあ」
母は困ったように笑いながら、次の肖像画を取り出す。そんなやり取りを何度繰り返したかわからない。
さらに社交の場へ出れば、縁談はもっと露骨になった。夜会で初めて会った男性が、二曲目のダンスが終わった頃には「またお話しする機会をいただけませんか」と言ってくる。お茶会で隣の席になったご令嬢が、帰り際には「兄があなたにとても興味を持っているの」と囁いてくる。今日は年頃の人はいないからと油断していれば、「うちの息子が、お嬢様とぜひ一度お話ししたいそうで」
そんな言葉を、私は何度聞いたことだろう。王都の社交シーズンが本格的になると、屋敷へ届く招待状の数も増えた。朝、郵便を運んできた使用人が銀の盆に並べる封筒の中には、必ずと言っていいほど見慣れない家紋が混じっている。
封を切れば、夜会への招待状。その裏に、さりげなく「ご子息も同席させる予定です」と書かれていることもある。夜会へ行けば、誰かしらが私の隣の席を狙っている。庭園へ出れば、いつの間にか青年が一人、同じ方向へ歩いている。ダンスの申し込みが途切れない夜もあった。
もちろん、皆が皆、真剣に私との結婚を考えているわけではない。ただ、私が公爵家の一人娘であること。そして年齢的にも、そろそろ結婚相手を決める時期に差しかかっていること。それを考えれば、私に近づいてくる人が増えるのは当然だった。
頭ではわかっている。わかっているけれど――。
「お嬢様、こちらの方からもお手紙が届いております」
ある朝、アルヴィンが銀盆の上に封筒を並べながら言った。
「また?」
「はい」
「何通?」
「三通です」
「昨日も二通来たわよ」
「存じております」
「一昨日は?」
「四通でしたね」
「……多すぎない?」
思わず机に突っ伏したくなる。アルヴィンはそんな私を見ても、特に同情する様子もなく、淡々と封筒を仕分けていく。
「人気者でいらっしゃいますね、お嬢様」
「嬉しくないわ」
「それは残念です」
「アルヴィン」
「はい」
「私、あなたとしか結婚したくないって知ってる?」
「存じております」
「だったら、どうしてそんなに平然としていられるの?」
「私に言われましても」
アルヴィンは一枚の封筒を手に取り、封蝋を確認する。
「縁談をお断りする権利をお持ちなのは、お嬢様ですから」
「そうだけど……」
私は頬杖をついて、机の上に並んだ封筒を睨んだ。
問題は、断っても断っても次が来ることだった。私が一つ断れば、別の家からまた一つ。夜会に一度出れば、その後に「先日はありがとうございました」という手紙が何通も届く。それに両親が目を通し、家柄や領地、年齢や人柄などを確認し、その中から「会ってみてもいいのではないか」という相手を選ぶ。そして私は、また会う。それが繰り返される。
気づけば、私の一日は家庭教師と社交と縁談のために細かく予定が埋められるようになっていた。アルヴィンとの関係は、何も変わらない。本当に、驚くほど何も。
ただ、私の周りに「結婚」という言葉だけが、以前よりずっと頻繁に飛び交うようになった。そして、それが嫌になるほど増えていった頃。私の誕生日が、もうすぐそこまで近づいていた。
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午後から降り出した雨が、夕方になってもまだ屋敷の窓を細かく叩いていた。夏の雨は短いことが多いけれど、その日は珍しく長引いていた。庭の芝生は濡れて深い緑色になり、石畳には水たまりがいくつもできている。遠くでは雷が一度だけ低く鳴った。私は雨音を聞きながら、自室で本を読んでいた。
そこへ侍女がやってきて、お父様が執務室に来るようにと言っていると告げた。
「お父様が?」
「はい。少しお話があるそうです」
嫌な予感がした。最近のお父様の「話がある」は、大抵の場合、私にとってあまり嬉しくない話だったからだ。私は本を閉じ、窓の外を一度だけ眺めてから執務室へ向かった。
廊下の窓から見える庭は、雨に煙っていた。普段なら聞こえる庭師たちの声もなく、屋敷の中まで少し薄暗い。昼間だというのに燭台には火が灯されていて、濡れた夏の空気が古い石造りの廊下をひんやりと冷やしていた。執務室の扉を叩く。
「入りなさい」
中へ入ると、お父様は大きな机の向こうに座っていた。そしてその向かいにあるソファにはお母様が。窓際には雨粒が流れ、机の上には今日届いたばかりらしい書類や封筒がいくつも積まれている。その中には王家の紋章が押されたものもあった。
「座りなさい」
「はい」
お母様がにこりとして隣に座るよう促したので、私はお母様の隣、お父様の向かいのソファへ腰を下ろした。お父様はしばらく手元の書類を眺めていたが、やがて一枚を取り上げた。
「今年のお前の誕生日だがな」
「ええ」
「王宮主催のパーティーと重なった」
「……パーティー?」
「王太子殿下の婚約披露会だ」
「ああ……」
王太子リュカ殿下の婚約披露会だ。長いこと特定の相手を作らなかったリュカ王太子が婚約を決めたという話は、社交界の噂に疎い私でも流石に耳にしたことがあった。
王家主催ともなれば、当然ながら社交界のほとんどが集まる。しかも王太子殿下の婚約披露となれば、ただの夜会とはわけが違う。各家がどれほどの顔ぶれを揃えてくるか、どの家と誰が話すのか、それだけでも翌日の社交界では話題になるだろう。欠席するという選択肢は、少なくとも公爵家の娘である私にはない。
「そこで、誕生日の祝宴は別の日にずらそう」
お父様が言った。
「王宮のパーティーが前か、後か。大規模にする必要はないが、客人をお呼びしてーー」
私は少し考えてから、ため息をついた。
「でも最近、パーティーばかりでうんざりしているのよ」
「お前がそう言うのは珍しいな」
「だって、本当に多いんだもの」
私は椅子の背にもたれた。
「毎週のように夜会だのお茶会だのって。着替えて、馬車に乗って、知らない人と挨拶して、同じような話をして……」
「貴族令嬢の務めだ」
「わかってるわよ」
わかっているからこそ、疲れるのだ。
「今年のお誕生日は、家族だけがいいわ。パーティにしたいで、みんなで座って食事がしたいの」
雨音が窓の向こうで静かに続いている。お父様は少しの間黙っていたが、やがて頷いた。
「仕方がないな」
「いいの?本当に?」
「ああ。ただし、王宮のパーティーのほうは別だ」
嫌な予感がした。
「王宮では、きちんと誰かにエスコートしてもらいなさい」
「ええ……」
「一人で行くわけにもいかんだろう」
「……アルヴィン」
反射的に口から出た。お父様の返事は早かった。
「許すわけがないだろう」
「……だめ?」
「当然だ」
きっぱりと言われてしまった。
「それに、アルヴィンは当日もお前の身の回りのことがある。エスコート役までさせるつもりはない」
「でも……」
「候補ならいくらでもいる。例えば――」
お父様は机の上に置かれた書類へ目を落とし、いくつか名前を挙げていく。
「グランディエ伯爵家の次男。それから、ヴァルモン侯爵家の嫡男も――」
「嫌」
「まだ何も言っていないぞ」
「でも嫌よ」
「では、こちらはどうだ」
「もっと嫌」
「フィオナ」
「だって、知らない人と一日中一緒にいるなんて疲れるもの」
お父様は額に手を当てた。それまで口を挟まなかったお母様が、ふと何かを思い出したように言った。
「そういえば」
「なんだ?」
「レスターが、しばらく王都に来ると言っていませんでした?」
「ああ」
お父様の顔が、ぱっと明るくなった。
「そうだったな」
その名前を聞いて、私も記憶を探る。
「レスター……?」
「覚えていないかしら?」
お母様が笑った。
「お父様の遠縁よ。辺境伯家の次男坊。見事な赤毛の」
「ああ……」
少しずつ記憶が戻ってくる。
レスター・ヴァルター。
子供の頃に何度か会ったことがあるはずだ。父方の遠縁にあたる辺境伯家の次男で、長男はアルバートと言う。アルバートは幼い頃から非常に出来がいいと評判だが、レスターの方はその影に隠れているのか、あまり王都の噂話には登場しない人物だ。ただ、子供の頃に辺境伯領を訪れた際、少し年上の男の子と遊んだ記憶がぼんやりと残っている。年齢差を考えると、彼がきっとレスターだろう。
「レスターならいいじゃないか」
お父様はすっかり機嫌を直していた。
「家柄も申し分ない。辺境伯家の次男なら、お前の相手として不足もないだろう。それに、昔から顔見知りだ」
「……」
「彼なら頼める。ちょうど王都に来るというなら、私から話をしておこう」
「え、お父様?」
「レスターなら、お前の婚約者候補としてもちょうどいい」
「ちょっと待って」
「何を待つんだ?」
「エスコートしてもらう相手を決めただけよね?」
「そうだな」
お父様は当然のように頷いた。
「その際、気が合うようなら婚約者として参列すれば良いじゃないか」
「……」
話が勝手に進んでいる。しかも、さっきまでの縁談候補とは違って、お父様はすっかり乗り気だ。
私は思わず、助けを求めてお母様を見た。お母様は楽しそうに笑っている。
「久しぶりに会うのもいいんじゃないかしら。小さい頃以来でしょう?あなたも他の殿方よりも良いのではなくて?」
「……そうだけど」
私は渋々頷いた。あまり覚えていないとはいえ、全くの初対面よりはずっと気が楽だ。ただ、他にエスコートしてもらいたい人がいるだけで。
「では、レスターに使いを出そう」
「お父様……」
「何だ?」
「私、まだ『お願いします』とは言ってないわよ」
「そうか?」
「そうよ」
お父様は少し考えたあと、平然と言った。
「まあ、レスターならそう悪くはないだろう」
「だから、そういう問題じゃないのよ……」
「パーティの前にあって、親睦を深めるといいわ」
「お母様まで」
私は深々とため息をついた。こうして、パーティの存在を聞かされてから30分もしないうちに、私のエスコート役はレスターに決まった。




