夜の終わりに
食事を終え、最後に出された小さなケーキまで綺麗に平らげる頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
暖炉の火がぱちぱちと音を立てている。いつもなら控えている使用人の気配さえ、今夜はほとんど感じられない。両親がいないだけで、こんなにも屋敷の中が静かになるものなのかと思った。
「美味しかったわね」
私は満足して息を吐きながら、暖炉の前に置かれたソファへ移動した。
アルヴィンも少し遅れてついてくる。私は長いソファの中央に座るのではなく、暖炉に向かって置かれた椅子とソファの間のような位置に腰を下ろした。アルヴィンも私のすぐ隣ではなく、少し角度のついた場所に腰掛ける。ほんの少し身体を横へ向ければ、互いの顔が見えるくらいの距離だった。
暖炉の火が静かに揺れている。その向こうでは窓に雪が降り続いていて、白い粒が夜の闇へ吸い込まれるように落ちていた。
「……なんだか、不思議ね」
「何がです?」
「こうして二人で祝祭の日を過ごしていること」
「そうですね」
アルヴィンは暖炉へ目を向けたまま答えた。
「本来なら、私は実家に戻っているところでしたから」
「うん」
そう言ってから、私はふと笑った。
「でも、残ってくれてよかった。好きよ」
「はいはい」
いつもの返事だった。けれど今日は、その声が少しだけ柔らかく聞こえた。ケーキのクリームの香り付けに使われたリキュールのせいかもしれない。あるいは、両親がいないせいで、アルヴィンもいつもより気が抜けているのかもしれない。
私は暖炉の火を眺めながら、ふと横目で彼を見る。最近は、こうして二人きりでゆっくり話す時間が少なかった。家庭教師が増えて、社交の予定も増えて、アルヴィンとは毎日顔を合わせているのに、私が見ているのはいつものきちんとした執事の顔ばかりだった。
だから、今夜のように少しだけ気が緩んだアルヴィンを見るのが、私は嬉しかった。子供の頃の話をしたり、最近の家庭教師の授業がどれだけ厳しいかを愚痴ったりしているうちに、時間は思っていたよりも早く過ぎていった。他愛もない話をして、笑って、また暖炉を眺める。
気がつけば、二人分のホットチョコレートもすっかり空になっていた。もう随分と遅い時間だった。
「……もうこんな時間」
「ええ。そろそろお休みになったほうがよろしいでしょうね」
「そうね」
立ち上がると、アルヴィンも同時に腰を上げた。
「お部屋までお送りします」
「うん」
いつものように差し出された手に、私は自然に手を重ねる。
廊下へ出ると、屋敷は驚くほど静かだった。暖炉のある部屋を離れた途端、冬の夜の冷たさが少しだけ肌に感じられる。窓の外では、まだ雪が降っている。私はその白い景色を眺めながら、ゆっくりとアルヴィンと並んで歩いた。
今日が終わってしまう。そう思うと、さっきまで楽しかった気持ちの中に、ほんの少しだけ寂しさが混じった。
やがて私の部屋の前に着く。
「それでは、おやすみなさいませ。お嬢様」
アルヴィンが一礼する。
「……おやすみなさい、アルヴィン」
私は扉の前で振り返った。けれど、アルヴィンはすぐには踵を返さなかった。ほんの少しだけ、その場に立ったまま私を見ている。
「……どうしたの?」
首を傾げると、アルヴィンは一瞬だけ視線を逸らした。
「いえ」
そう言いながら、ジャケットの内ポケットへ手を入れる。
取り出したのは、小さな箱だった。綺麗に包装されている。派手な飾りはないけれど、落ち着いた色の包み紙に細いリボンが結ばれていて、それだけで大切に扱われていたことがわかった。
「……なに、それ?」
「どうぞ」
差し出された箱を、私は反射的に受け取った。
軽い。けれど、何が入っているのかはまったく想像がつかなかった。
「私に?」
「はい」
「……どうして?」
思わず聞いてしまった。だって、こんなことは初めてだった。
祝祭の日には、家族や親族の間で贈り物をする。それは昔から続く風習で、特に貴族社会においては、血のつながりや、婚姻関係がある相手に限定して贈り物をするのが常識だった。私も毎年、アルヴィンにプレゼントは用意していたが、それは祝祭のプレゼントではなく誕生日のプレゼントだったからだ。当然、アルヴィンが私に祝祭の日の贈り物を用意してくれたことは、これまで一度もなかった。
私が驚いているのがわかったのか、アルヴィンは少し困ったように笑った。
「今日は旦那様も奥様もいらっしゃいませんので」
そう言ってから、なぜか地面へ視線を落とす。
「開けられる贈り物が何もない祝祭では、味気ないでしょう」
「……」
「急拵えでしたので……お嬢様からいただいたものと比べると、見劣りしてしまうかもしれません。そのあたりは、大目に見てください」
いつものアルヴィンなら、こんなことを言うときももっと平然としている。なのに今日は、珍しく私の顔をまともに見ようとしなかった。胸の奥が、ぽっと温かくなる。
「……アルヴィン」
「はい」
「これ、開けてもいい?」
「もちろんです」
私は部屋の前で、箱のリボンをほどいた。包みを開き、蓋を持ち上げた瞬間、ふわりと花の香りが漂ってきた。
「わぁ……」
中に入っていたのは、小さな香り袋だった。淡い色の布で仕立てられた、可愛らしいサシェ。端には細い紐がついていて、小さな飾りが控えめに揺れている。手のひらに乗せてみると、そこからふんわりと優しいラベンダーの香りがした。
「ラベンダー……」
「ええ」
アルヴィンが答える。
「厄を払ってくれるそうですよ」
「厄を?」
「はい。昔から、そういう言い伝えがあるようです」
私はもう一度、サシェを眺めた。厄を払う。その言葉が、なんだか妙に嬉しかった。アルヴィンが私にくれた初めての祝祭の贈り物は、私の身を守るためのもの。
「……可愛い」
思わず呟いて、私は指先でサシェの布地をそっと撫でる。
「気に入っていただけましたか?」
「うん」
顔を上げて、アルヴィンを見る。
「すごく嬉しい」
そう言うと、アルヴィンはほんの少しだけ目を細めた。
「それなら、よかったです」
私はサシェを両手で大切に包み込んだ。手の中の小さな香り袋と、そこから漂う優しいラベンダーの香りを、私は一生忘れないだろうと思った。
もっと話していたい。今日が終わってほしくない。けれど、いつまでもここでアルヴィンを引き止めるわけにもいかない。
「……ありがとう、アルヴィン」
「どういたしまして」
今度こそ、アルヴィンは一礼した。私は部屋へ入り、扉を閉める。そのまましばらく、扉の前に立っていた。
耳を澄ませば、廊下の向こうへ遠ざかっていく足音がかすかに聞こえた。私はその音が聞こえなくなるまで、動かなかった。
楽しかった。
とても楽しかった。
だからこそ、夜が終わってしまったことが、少しだけ寂しかった。
********************
二日後。
予定より遅れて、お父様とお母様が屋敷へ戻ってきた。幸い、雪による足止め以外には何も問題がなかったらしく、二人とも元気そうだった。
「フィオナ、留守にしてしまって悪かったな」
「ううん。二人とも無事に帰ってきてくれたなら、それでいいわ」
「だけど、寂しかったでしょう。可愛いフィオナ、ごめんなさいね」
お母様には何度も謝られ、私は笑って首を振った。
「ところで、アルヴィンが残ったらしいな」
「ええ」
私は頷く。
「私が一人になってしまうから、残ってくれたのよ」
「そうか」
お父様は少し考えるように黙ってから、何気ない口調で続けた。
「……何か、妙なことはしなかっただろうな?」
「妙なこと?」
「たとえば、贈り物の交換だとか」
「……!」
思わず、胸の奥が跳ねた。お父様はそんな私の反応を見逃さなかったのか、少しだけ眉を上げる。
「お前ももうデビュタントを終えている。アルヴィンも子供ではない。まさか、二人ともそのあたりを何も考えずにいるほど世間知らずではあるまい?」
「あ……」
その瞬間、私はようやく気づいた。
アルヴィンがあの日、あんなに「前と同じようにはできませんよ」と言っていた理由。私が「誰にもバレないじゃない」と言っても、贈り物を受け取ろうとしなかった理由。お父様は、ずっと見ていたのだ。私とアルヴィンが、どれくらい近くにいるのか。それが私の将来にどのような影響を及ぼすのか。
「違うわ、お父様」
私は慌てて首を振った。
「お父様とお母様と一緒に祝祭を祝いたくて、お祝いは後にしたのよ」
「……そうか」
お父様はそれ以上追及しなかった。私はほっと息を吐きながら、ふと、自分の部屋に置いてきたサシェのことを思い出した。淡い布の小さな香り袋。そこから漂う、優しいラベンダーの香り。
あれをアルヴィンが渡してくれたとき、彼はずっと視線を落としていた。彼が一体どんな気持ちであの贈り物を用意してくれたのか。そして、どんな葛藤を振り切って私に差し出してくれたのか。それを思うと、ますますあの廊下でのひと時が忘れられない思い出になるような気がした。




