第8話 寄生植物の正体
第8話 寄生植物の正体
エルザが去ってから三週間が過ぎていた。
公爵領の冬はますます厳しさを増している。
朝になると窓ガラスの内側まで凍りつき、廊下を歩けば吐く息が白くなる。
かつて豊かな緑に覆われていた庭園は完全に枯れ果てていた。
噴水は氷の塊となり、冬薔薇は黒く変色して地面に張り付いている。
公爵邸は静かだった。
いや。
静かすぎた。
以前はどこかで帳簿をめくる音が聞こえた。
使用人がエルザに報告する声が聞こえた。
夜遅くまで書斎に灯る明かりが見えた。
今は何もない。
その不自然な静けさだけが残っている。
リュシアンは執務室で机に向かっていた。
目の前には山積みの請求書。
税収報告。
凍害被害報告。
融資停止通知。
どれも悪い知らせばかりだった。
額を押さえる。
頭が痛い。
ここ数日、ほとんど眠れていない。
「旦那様」
財務官が青ざめた顔で入ってくる。
「今度は何だ」
「南部農園の件です」
「言え」
「凍害による損失が予測の三倍を超えました」
リュシアンは目を閉じた。
またか。
また損失。
また赤字。
また破綻。
数字を見るだけで吐き気がする。
エルザはどうやってこれを処理していたのだろう。
ふとそんな考えが浮かぶ。
以前の自分は信じていた。
領地経営は自分がしているのだと。
公爵家を支えているのは自分だと。
だが現実は違った。
数字を見れば分かる。
支えていたのはエルザだった。
彼女一人だった。
「旦那様?」
財務官の声で我に返る。
「……下がれ」
疲れた声だった。
昼食の時間になった。
食堂には温かなシチューが並んでいる。
だが肉は少ない。
以前なら高級牛肉が使われていた。
今は安価な部位ばかりだ。
パンも小さい。
使用人の数が減ったため、料理の質も落ちていた。
クロエはスプーンを置いた。
「これ何ですの?」
「昼食だ」
「分かってます!」
クロエが声を荒げる。
「こんなの貴族の食事じゃありません!」
リュシアンは疲れた顔を上げた。
「今は節約している」
「節約?」
「領地の財政が危機なんだ」
クロエは信じられないという顔をした。
「だから何ですの?」
「少し節制してくれ」
その言葉。
その瞬間。
クロエの顔が変わった。
「は?」
低い声だった。
リュシアンは驚く。
今まで聞いたことのない声だった。
「だから——」
「私に我慢しろと言うんですか?」
クロエは立ち上がった。
椅子が大きな音を立てる。
「お前のためじゃない」
「違います!」
クロエは叫んだ。
「リュシアン様が守ってくれるって言ったんでしょう!?」
食堂が静まり返る。
使用人たちも凍りついた。
クロエは止まらない。
「可哀想な私を助けてくれるって!」
「クロエ」
「欲しい物は何でも買ってくれるって!」
「落ち着け」
「落ち着けません!」
目には涙。
だがその涙に以前の弱々しさはない。
怒りだった。
自分の権利を奪われた者の怒り。
リュシアンは初めて違和感を覚えた。
何かがおかしい。
いや。
ずっとおかしかったのかもしれない。
クロエは続ける。
「ドレスも買えない!」
「……」
「宝石も買えない!」
「……」
「旅行も行けない!」
その姿を見ながら、リュシアンの胸に冷たいものが広がっていく。
エルザはこんなことを言わなかった。
どんなに苦しい時も。
どんなに我慢しても。
領地を優先した。
人々を優先した。
未来を優先した。
クロエは違う。
自分だけだった。
夜。
リュシアンは眠れなかった。
書斎の暖炉の前で酒を飲む。
琥珀色の液体が揺れる。
エルザがよく座っていた椅子が目に入る。
誰もいない。
静かだった。
その時。
廊下で物音がした。
こんな時間に。
不審に思いながら向かう。
客室の前。
扉が少し開いていた。
中からクロエの声が聞こえる。
「ええ、もちろんです」
楽しそうな声だった。
リュシアンは足を止める。
「侯爵家なら問題ありませんわ」
侯爵家。
誰のことだ。
「公爵家はもう終わりですもの」
リュシアンの心臓が止まりそうになった。
「ええ」
クロエは笑う。
「私だって沈む船に乗り続けるほど馬鹿じゃありません」
沈む船。
それが公爵家だった。
それが自分だった。
「向こうへ移れば生活水準も落ちませんし」
軽い声だった。
まるで服を着替えるように。
簡単に。
当然のように。
リュシアンは扉の隙間から覗いた。
クロエは荷造りをしていた。
宝石箱。
ドレス。
化粧品。
高価な持ち物ばかりを選んでいる。
その姿を見た瞬間。
すべてが繋がった。
エルザが言っていたこと。
使用人たちの視線。
貴族たちの噂。
全部。
クロエは守るべき弱者ではなかった。
養分を求めて木に取り付く寄生植物。
ただそれだけだった。
そして。
エルザ。
吹雪の中でも領地を守り続けた女性。
自分を支え続けた女性。
本当に守るべきだった人。
本当に感謝すべきだった人。
本当に隣にいるべきだった人。
リュシアンは壁に手をついた。
息が苦しい。
胃が痛い。
遅すぎた。
あまりにも。
「私は何を……」
掠れた声が漏れる。
窓の外では雪が降っている。
冷たい。
どこまでも冷たい。
かつて公爵領を支えていた大樹はもういない。
自分の手で切り倒したからだ。
残ったのは。
枯れ木にしがみつく虫だけだった。
そしてその虫さえ。
次の木を見つけて飛び去ろうとしている。
リュシアンはその場に崩れ落ちた。
暖炉の火もない廊下は凍えるほど寒かった。
けれど。
胸の中の寒さの方が、はるかに深かった。




