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第15話 他感作用――枯らされた土地の証言

第15話 他感作用――枯らされた土地の証言


春化処理を終えた白鈴花の種子は、北部農園の大半の区画で順調に芽を出した。湿った黒土から薄緑色の双葉が並び、朝露を受けて光っている。ところが、公爵領と接する東側の第九区画だけは、種をまいて十日が過ぎても土の色が変わらなかった。


エルザは裾を膝までたくし上げた濃紺の作業着に、泥のついた革長靴を履いて畑へ入った。髪は白い布でまとめていたが、風にほどけた数本が頬へ張りついている。しゃがんで土を指ですくうと、湿り気は十分にあり、種子を掘り出しても腐敗した臭いはしなかった。


「種子は生きています」


隣で木箱を抱えていたノアも、掘り出した種子を指先で割った。中身は白く、虫に食われた痕跡もない。彼は灰色の作業用上着の袖で額を拭い、そのまま頬へ黒い土の筋をつけた。


「水分も温度も、ほかの区画と大きな差はありません。それなのに発芽反応だけが止められています」


「春化処理の失敗でしょうか」


若い農政官のテオが尋ねた。第九区画の管理を任されているため、彼は朝食も取らずに畑へ来ていた。茶色い上着のポケットには、妻が持たせた茹で卵が二つ入っている。動くたびに殻がぶつかり、かすかな音を立てていた。


「同じ日に処理した種子を、ほかの区画にもまいています。春化処理だけが原因なら、第九区画に限って発芽しない説明がつきません」


エルザは区画の端まで歩き、公爵領との境にある石垣を調べた。石の隙間から細い水路が伸び、雪解け水が農園側へ流れ込んでいる。水面には淡い黄色の泡が浮かび、鼻を近づけると、湿った草の匂いに混じって薬草を焦がしたような刺激臭がした。


「ノア、この水を採取してください」


「上流も調べますか」


「ええ。水路へ入る前、公爵領の畑を通過した直後、この区画の中央で分けて採取しましょう。容器には場所と時刻を書き、封をしてください」


「誰かが薬剤を流したのでしょうか」


テオが石垣の向こうを見た。公爵領側には、昨年の収穫を終えた麦畑が茶色く広がっている。その土には雑草が一本も生えていなかった。


「まだ決めつけてはいけません。まず、土と水に何が含まれているかを確認します」


採取を終えた三人は、農具小屋へ戻った。オットーが鉄鍋で朝の粥を温め直しており、蓋を開けると山羊乳と麦の匂いが広がった。鍋の横には焼いた腸詰めが三本並んでいたが、ノアが一本つまもうとして、木杓子で手の甲を叩かれた。


「それは働いた者の分だ。研究官殿は、さっき土を掘っただけでしょうが」


「土を掘るのも立派な労働です」


「それなら、薪を割ってから食べなされ」


「私は植物研究官で、薪割り官ではありません」


「腹は役職を聞いてくれませんよ」


エルザが木椀を取ると、テオの腹から大きな音がした。彼は顔を赤くし、ポケットから茹で卵を出そうとしたが、一つは中で割れていた。殻の隙間から黄身が上着へこぼれ、オットーが声を上げて笑った。


「食事を抜いて働くことを、熱心とは呼びません。次からは食べてから畑へ出てください」


「申し訳ありません。担当区画で失敗したと思うと、喉を通らなくて」


「失敗かどうかを決めるのは、原因を調べてからです。空腹のままでは、原因を見落とします」


エルザはテオの椀へ多めに粥を入れた。山羊乳の甘みはあったが、オットーが塩を入れ忘れたらしく、味はほとんどしなかった。ノアが無言で塩壺へ手を伸ばすと、オットーは咳払いをして窓の外を見た。


午後には、採取した土と水が王立植物研究院へ運ばれた。エルザは結果が出るまで、第九区画への立ち入りを禁じた。種をまいた作業員たちの長靴と農具も別の場所で洗わせ、洗浄水がほかの畑へ流れないよう、石を敷いた穴へ集めた。


三日後、ノアが検査報告書を持って農園へ戻った。王都から早馬で来たため、灰色の外套には乾いた泥が跳ね、眼鏡の片方には小さな虫が張りついていた。彼は食堂へ入るなり報告書を机へ広げたが、オットーに外套を脱げと叱られた。


机の上には、昼食の豆と鶏肉の煮込みが残されていた。表面の脂は冷えて白く固まり、焼いた玉ねぎの匂いだけが部屋に残っている。エルザは鍋を暖炉へ戻し、報告書の数値へ目を通した。


「発芽抑制剤ですか」


「正確には、黒胡桃草から抽出した他感物質を人工的に濃縮した除草剤です。土壌中に残り、周囲の植物の発芽や根の成長を妨げます」


「他感作用ですね」


「はい。植物が放出する化学物質によって、ほかの植物の発芽や生育が影響を受ける現象です。自然界では、競争相手を抑える働きとして現れることがあります。しかし検出された濃度は、自然に生じる量ではありません」


ノアは地図を開き、検体を採取した位置へ印をつけた。公爵領へ入る前の雪解け水から薬剤は検出されず、麦畑を通過したあとの水から高い濃度が検出されている。第九区画の中央では濃度が少し下がっていたものの、白鈴花の発芽を妨げるには十分だった。


「公爵領で使われたものが、水路を通って流れ込んだと考えるのが自然です」


テオは匙を持ったまま、煮込みの中の豆を見つめた。妻に縫ってもらった上着のポケットには、茹で卵の黄身の染みがまだ残っている。彼は公爵家の農政官だった頃、この除草剤の名前を見た覚えがあった。


「黒胡桃七号かもしれません」


「知っているのですか」


「三年前、公爵領の麦畑で使い始めた薬剤です。従来品の半額で、雑草を長く抑えられると説明されました。ただ、土に残りやすいため、水路の近くでは使用しないという条件があったはずです」


「購入量を覚えていますか」


「最初の年は、大樽で二十本でした。しかし翌年からは、私が購入記録を見られなくなりました」


「なぜですか」


「前任管理官のザイフェルト様が、農政官は現場だけ見ていればよいとおっしゃったからです」


テオは匙を皿へ置いた。公爵家にいた頃、散布量が多すぎるのではないかと管理官へ尋ねたことがある。しかしザイフェルトは、雑草が生えなければ作業員を減らせると言い、余計な調査をしないよう命じた。テオはその後、別の水路担当へ移されていた。


「申し訳ありません。あの時、もっと調べていれば……」


「今、覚えていることをすべて話してください。それが調査になります」


「私も責任を問われるでしょうか」


「それを決めるのは裁判所です。ただし、知っていることを隠せば、被害は広がります」


エルザはノアに追加検査を依頼し、自分は公爵家時代の購入記録を調べることにした。離婚の際に複製した財務資料は、王立公文書院へ保管されている。復讐のために持ち出したのではなく、持参金と公爵家の支出を分ける証拠として、裁判所の許可を得て作ったものだった。


調査を始めると、薬剤の購入量は一年目の二十樽から、二年目には六十樽、三年目には百樽へ増えていた。散布を担当した農民たちへの聞き取りでは、定められた量の三倍以上を使うよう命じられていたことも分かった。薬剤の刺激臭で目を傷めた者や、手の皮膚がただれた者もいたが、治療費は支払われていなかった。


農園の集会所には、被害を受けた農民たちが集まった。泥のついた作業着の者、子どもを背負った女性、杖をついた老人もいる。長机にはオットーが焼いた芋と温かい薄荷茶が並べられ、濡れた靴と薪の煙の匂いが部屋にこもっていた。


「公爵家を訴えるのですか」


手を傷めた農婦のマルタが尋ねた。彼女は薬剤を散布した年から指の皮膚が割れ、寒い日には匙を持つのも難しくなったという。湯飲みを両手で包みながらも、右手の親指だけは曲げられずにいた。


「まず、皆さんが受けた被害を記録します。治療費、収穫できなかった作物、汚染された井戸の清掃費用まで調べます」


「公爵様を破産させれば、私たちの金も戻らないでしょう」


「その通りです。ですから、裁判の決着を待たずに、農園の緊急基金から治療費を立て替えます」


「どうして、あなたの農園が払うんです」


「皆さんが治療を先延ばしにすれば、働けなくなる方が増えます。責任の所在を調べることと、今日必要な薬を用意することは、別に進めるべきです」


エルザは申請書を一人ずつ配った。文字を書くのが難しい者には、テオや農園の事務員が聞き取りをしながら記入する。子どもを背負った女性が手続きをしている間、ノアが赤ん坊を預かったが、抱き方が悪く、すぐに大声で泣かれた。


「植物は泣かないので、専門外です」


「そんな抱き方をされたら、大人でも泣きますよ」


オットーが赤ん坊を受け取り、慣れた手つきで背中を軽く叩いた。赤ん坊は泣きやみ、老人の白い口ひげへ手を伸ばした。張り詰めていた部屋に笑い声が起こり、マルタも割れた指をかばいながら焼き芋の皮を剥いた。


聞き取りから二週間後、証拠がそろった。土壌と水の検査結果、薬剤の購入記録、農民の診療記録、散布を命じたザイフェルトの指示書が並んでいる。さらに、予想していなかった一枚の命令書が見つかった。


それは三年前、リュシアンが財政支出の削減を命じた書類だった。雑草を刈る作業員を半数に減らし、従来の薬剤から安価な黒胡桃七号へ切り替えるよう記されている。水路付近での使用制限について、エルザが赤字で注意を書き込んでいたが、その下には「収穫量を優先せよ。過剰な懸念は不要」とリュシアンの筆跡で追記され、公爵印まで押されていた。


「これを公爵家への交渉材料に使えば、多額の和解金を取れます」


テオが書類を見つめながら言った。エルザは指先で命令書の端をそろえ、ほかの証拠と一緒に革袋へ収めた。夜の事務室では、暖炉にかけた林檎茶が甘い匂いを立てている。


「和解金は農園のものではありません。被害を受けた方々へ支払われるべきです」


「リュシアン様への報復には使わないのですか」


「報復を目的にすれば、事実のうち、自分に都合のよい部分だけを選ぶことになります。必要なのは、公爵家を困らせることではなく、汚染を止め、被害を補償し、同じことを繰り返させないことです」


「それでも、公爵様は困るでしょう」


「それは、ご自身の行為の結果です」


エルザは証拠一式を王立裁判所へ提出した。裁判所は内容を確認し、黒胡桃七号の使用を直ちに禁止した。ザイフェルト前管理官には出廷命令が出され、公爵領の責任者であるリュシアンも王都へ呼び出された。


審理の日、エルザは白い立ち襟のシャツに濃紺の上着を着て、髪を一つにまとめて法廷へ入った。装飾品は銀の時計だけで、冬至梅のブローチはつけていなかった。盗まれていたブローチは王立植物監査院が回収していたが、クロエの事件の証拠品として保管されている。


リュシアンは色褪せた黒い礼装を着ていた。襟元には強い香水をつけていたものの、長旅で洗えなかった服から湿った汗の臭いが漂っている。朝食を取る金を惜しんだらしく、法廷が静かになるたび、彼の腹から低い音がした。


裁判官は土壌汚染の範囲を確認し、ザイフェルトへ散布量を増やした理由を尋ねた。ザイフェルトは茶色い帽子を両手で握りしめ、何度もリュシアンのほうを見た。かつては腹の出た大柄な男だったが、逃亡生活で頬がこけ、上着の肩が余っている。


「私は、公爵様から経費を削減するよう命じられました。人手を減らしても収穫量を維持するには、薬剤を増やすしかなかったのです」


「使用基準を超えていることは知っていましたか」


「説明書には書かれていました。しかし、公爵様が収穫量を落とすなと……」


リュシアンは椅子から立ち上がった。脚が机へ当たり、置かれていた水差しが揺れる。彼はザイフェルトを指さし、声を荒らげた。


「勝手なことを言うな。散布量まで俺が命じたわけではない!」


「静粛にしてください」


「俺は知らなかったのです。領地の細かな管理は、エルザに任せていた。問題があったのなら、当時の公爵夫人が止めるべきだった!」


傍聴席で農民たちがざわめいた。マルタは包帯を巻いた右手を膝へ置き、隣に座る夫の袖を握っている。テオは唇を引き結び、すぐにでも立ち上がりそうになったが、ノアが腕を押さえた。


エルザは証拠台の前へ進んだ。革袋から一枚の命令書を取り出し、裁判官へ渡す。書記官が内容を読み上げると、リュシアンの顔から血の気が引いた。


「これは……経費削減についての命令だ。薬剤を過剰に使えとは書いていない」


「私が使用制限について記した部分をご覧ください」


命令書には、エルザの赤い文字が残っていた。黒胡桃七号は水路付近で使わず、土壌検査を行うこと。作業員の安全装備を用意し、散布量を基準内に収めること。そのすべてに線が引かれ、リュシアンの字で不要と書き込まれている。


「俺は専門家ではない。危険性まで分かるはずがない」


「ですから私は、専門家の調査が必要だと進言しました」


「それなら、もっと分かりやすく説明すればよかっただろう!」


「三度説明しました。四度目には報告書を提出しました。あなたは一頁も読まず、署名だけをなさいました」


「公爵家には、ほかにも仕事があった!」


「クロエの別邸へ新しい温室を造る打ち合わせには、同じ日に二時間を使っておられます」


法廷に低いざわめきが広がった。リュシアンは何か言おうとしたが、開いた口から言葉が出てこなかった。自分の署名と公爵印を前にしては、エルザへ責任を押しつける言葉も形にならなかった。


「私は知らなかった。知らなかったことまで、俺の責任になるのか」


エルザはリュシアンを見た。以前なら、その顔に疲れが浮かんでいるだけで、仕事を代わろうとした。食事を取っていなければ厨房へ軽食を頼み、機嫌が悪ければ報告を翌日へ回した。しかし今は、彼の空腹も、色褪せた礼装も、エルザが直すべき問題ではなかった。


「あなたはいつも、知らなかったのではありません。知ろうとしなかったのです」


裁判官は審理を一時中断し、公爵領の資産と薬剤汚染の範囲を詳しく調査するよう命じた。被害者への治療費と収穫補償は最優先で支払われ、足りない場合には公爵家の私有財産を処分することも決まった。リュシアンが所有する最後の競走馬と、使用されていない離宮は、その日のうちに差し押さえの対象となった。


法廷を出ると、冷たい雨が石段を濡らしていた。エルザは農園の者たちと一緒に、向かいの食堂へ入った。昼食には焼いた鯖に似た川魚、茹でた芋、温かい茸のスープが出された。マルタは包帯を巻いた指で匙を持ち、久しぶりに温かい料理を最後まで食べた。


「これで、畑は元に戻るでしょうか」


マルタの問いに、ノアがパンをちぎる手を止めた。


「薬剤を取り除くには時間がかかります。汚染された土を入れ替え、吸着材を混ぜ、何度も検査をしなければなりません」


「では、今年も作物は作れないのですね」


「食用作物は難しいでしょう。ただ、薬剤を吸収しやすい浄化植物を植えれば、回復を早められる可能性があります。収穫はできませんが、作業には賃金が出ます」


エルザは補償計画書をマルタへ見せた。土地が回復するまでの生活費、治療費、浄化作業の賃金が記されている。紙の隅には、オットーが弁当と一緒に入れた林檎ジャムの染みがついていた。


「枯れた土は、何も話せないと思っていました」


マルタは窓の外の雨を見ながら言った。エルザは検査報告書へ手を置き、首を横へ振った。


「土は、残された成分で何が起きたかを伝えます。数字や記録も同じです。声を上げられないものの証言を、人が読み取らなければならないのです」


農園へ戻った翌日、第九区画では汚染土壌の除去作業が始まった。エルザも作業着へ着替え、土を運ぶ一輪車を押した。長靴の底へ黒い土が重く張りつき、額から流れた汗には薬剤の刺激臭が混じった。


昼になると、オットーが塩漬け肉と豆を挟んだパンを配った。ノアは手を洗う前にパンへ触れようとして、全員から同時に止められた。テオが石垣の上へ腰を下ろし、笑いながら水筒の水を彼の手へかけた。


白鈴花の芽は出なかったが、第九区画を見捨てる者はいなかった。作業員たちは土を取り除き、新しい水路を掘り、浄化植物の種をまいた。芽が出なかったという結果も、薬剤の残留を見つける大切な記録になった。


数週間後、黒く掘り返された土の一角から、浄化植物の赤い芽が顔を出した。エルザはしゃがんで葉の数を確かめ、観察帳へ日付を書き込んだ。隣にはテオが、発芽数を一つずつ数えている。


知らなかったと言えば、土に残った薬剤が消えるわけではない。命令した者が忘れても、傷んだ手や枯れた種子には結果が残る。だからエルザは、その結果を誰かへの報復ではなく、土地と人を回復させるために使うと決めていた。


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