第3話:人の姿
雨の夜。
また、その噂が流れた。
「見たんだ」
誰かが、小さく言う。
「人の姿だった」
白と黒。
二つの影ではなく、寄り添う二人の“人”。
そんな話を、誰も信じはしない。
けれど——あの男だけは、違った。
「……行くか」
ぽつりと呟く。
止める者はいない。
止めようとする者も、もういない。
雨は、静かに降っている。
森の奥へ。
祠へと続く道を、男は歩く。
あの夜から、何度目だろうか。
それでも——
今夜は、どこか違う気がしていた。
祠の前。
水面は、揺れている。
最初から——そこに“在る”かのように。
「……いるんだな」
返事はない。
だが、水面に影が映る。
白。
そして——黒。
その輪郭が、ゆっくりと変わっていく。
鱗がほどけるように。
水に溶けるように。
やがて、二つの影は“人の形”を取った。
白い髪の男。
そして、黒髪の少女。
男は、息を呑む。
見間違えるはずがない。
あの夜、ここにいた少女。
けれど——
「……少しだけ、借りているだけ」
少女が、静かに言った。
その声は、あの時と同じで、
けれど少しだけ——やわらかかった。
「人の形を」
男は、言葉を失う。
「……お前は」
問いかけようとして、やめた。
もう、答えは分かっている。
少女は、ゆっくりと視線を向ける。
その目は、もう死んだ魚のようではなかった。
静かで、深くて。
そして、ほんの少しだけ——優しい。
「怖くないの?」
ふいに、少女が問う。
それは、かつて問えなかった言葉のように。
男は、少しだけ笑った。
「最初から、怖くなかったよ」
少女の目が、わずかに揺れる。
「……嘘」
「ほんとだよ」
肩をすくめる。
「怖いっていうより——」
少し考えてから、
「寂しそうだった」
その言葉に、少女は息を止めた。
「……そう」
小さく、呟く。
その横で、白い男が静かに見ている。
何も言わず、ただそこに在る。
少女は、ほんの少しだけ視線を落とす。
「……もう、大丈夫」
それは、誰に向けた言葉なのか。
あるいは——自分自身に言い聞かせたのか。
やがて、彼女はわずかに微笑んだ。
ぎこちなく。
けれど確かに。
あの夜には、なかった表情。
男は、息を吐いた。
「……そっか」
それだけで、十分だった。
雨が、少し強くなる。
視界が滲む。
気づけば、二人の姿はゆっくりとほどけていく。
白と黒の影へと戻り、水の中へ沈んでいく。
最後に——
ほんの一瞬だけ、少女が振り返った気がした。
「……ありがとう」
声は、聞こえなかった。
けれど、確かにそう見えた。
祠の前には、もう何もない。
ただ、雨だけが降っている。
男は、しばらくそこに立っていた。
やがて、静かに背を向ける。
その背中は、どこか軽くなっていた。




