第2話:黒きもの
雨の夜のあと。
村には、奇妙な噂が流れはじめた。
「白き大蛇が、姿を見せなくなった」
代わりに——
「黒いものが、出る」
最初に言い出したのは、子どもだった。
「見たんだ」
震えた声で、そう言ったという。
「白いのじゃなくて、黒いのがいた」
大人たちは笑った。
「見間違いだ」
「雨のせいで影がそう見えただけだ」
だが、同じことを言う者が少しずつ増えていく。
「祠の水が、黒く揺れていた」
「何かが、こっちを見ていた」
誰も、確かめには行かない。
あの夜のことを、皆が知っているからだ。
——忌み子が捧げられた夜。
あれ以来、山に入る者はいなくなった。
ただ一人を除いて。
あの時、少女を見送った男。
彼だけが、何度か山へ足を運んでいた。
理由は、自分でもわからない。
罪悪感か。
それとも——確かめたかったのかもしれない。
雨の夜。
男は、再び祠へと向かう。
足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
音が、遠い。
雨の音だけが、やけに近く聞こえる。
祠の前。
水面は、静かだった。
何もいない。
そう思った、その時——
揺れた。
ぬるり、と。
黒い影が、水の底から浮かび上がる。
巨大な——大蛇。
息を呑む。
白ではない。
確かに、黒。
その瞳が、男を見た。
逃げなければ、と頭が叫ぶ。
だが、足が動かない。
次の瞬間——
もう一つ、白い影が水面に映る。
黒の隣に。
寄り添うように。
男は、理解した。
「……ああ」
声が、震える。
「そういうことか」
黒きものは、ただの怪異ではない。
それは——
あの夜、ここに捧げられた少女。
けれど、もう“人”ではない。
白と並び立つ、もう一柱。
静かに、寄り添う存在。
黒い大蛇の瞳が、わずかに揺れた。
その奥に、ほんの一瞬だけ——
人のような、やさしさが宿る。
男は、思わず呟いた。
「……生きて、いるのか」
その問いに、答えはない。
ただ、水面に映る二つの影が、わずかに重なる。
それはまるで——言葉の代わりのようだった。
雨が、強くなる。
視界が滲む。
気づけば、そこにはもう何もいなかった。
男は、その場に立ち尽くす。
恐ろしいはずなのに、
なぜか——少しだけ、安堵していた。
「……あれで、よかったのかもな」
誰に向けた言葉でもなく、
雨の中に溶けていった。
その日を境に、村ではこう囁かれるようになる。
白き神は、独りではない。
黒きものが、影のように寄り添っているのだと。
そして——
雨の夜には、決して森へ近づくな、と。




