邪神招来 後編
目を開けた瞬間、胡桃は息を呑んだ。
見慣れない木目の天井。
畳の匂い。
障子越しに差し込む朝の柔らかな光。
体は鉛のように重く、胸の奥には鈍い倦怠感だけが残っている。
(……ここ、どこ?)
ゆっくりと上体を起こそうとして、身体に力が入らないことに気づく。
その瞬間、途切れていた記憶が少しずつ繋がった。
――助けを求めた先生と呼ばれる男。
――「ちょっと手伝ってほしい」と言われた。
――針のない注射器のようなものを腕に押し当てられた。
そこから先は、何も思い出せない。
「……あ」
思わず漏れた小さな声に、部屋の隅から返事が返ってきた。
「起きたか」
視線を向けると、雅也が座布団の上であぐらをかいて煙草をくわえていた。
その隣では紫が心配そうに身を乗り出している。
「やっと起きた」
ほっとしたような声だった。
その顔を見て、胡桃の胸に張り詰めていた糸が少しだけ緩む。
「私……」
「無理に起きんでええ。」
雅也は煙草を灰皿に押しつけると、静かな声で続けた。
「覚えとる範囲だけでええ。何された?」
胡桃は小さく頷き、途切れ途切れに話し始めた。
加藤から頼まれた「お使い」。
事務所の奥へ通されたこと。
そして、妙な箱に入った石仏の封を開けた事。
話し終えるころには、自分でも分かるほど肩が震えていた。
雅也は最後まで口を挟まずに聞き、短く息を吐いた。
「……やっぱりな。」
胡桃は不安そうに顔を上げる。
「何だったんですか……?」
「呪いや。」
「呪い……?」
「わざと呪いを起動させ、俺に対処させようとしたんやろ」
あまりに淡々とした口調だった。
だからこそ、胡桃は背筋が冷えた。
「多分、大丈夫や。」
「……どうやって?」
雅也は少しだけ頭を掻く。
「一回、仮死状態になってもろた。」
胡桃は瞬きを繰り返した。
「……え?」
「薬で心臓止めた。」
「…………」
「呪いは対象が死んだと判断したら離れる類いやった。」
静かな口調のまま続ける。
「心臓動かしたまま外す方法もあるんやろうけど、時間が足りへんかった。」
「だから、悪いけど一か八かな方法を選んだ。」
胡桃の顔から血の気が引いていく。
隣を見ると、紫がどこか気まずそうに目を伏せていた。
「先生……」
「なんや。」
その、ごめん。」
雅也が顔を向ける。
頬には赤黒い痣が残っていた。
紫はそれを見て、さらに肩をすくめる。
「あの時、本気で先生がこの子に危ないことするって思っちゃって……。」
「思っちゃって、やあらへん。」
雅也は痣をさすりながら顔をしかめる。
「人の顔を思いっきり殴る奴がおるか。」
「だって!」
紫は思わず声を張り上げた。
「いきなり薬なんか取り出すし、この子はいきなり倒れちゃうし!」
「説明する暇なんかあるか。」
「一言くらい言えたでしょ!」
「敵がおる前で『今から仮死状態にします』なんて説明できるか。」
そのやり取りを見ていた胡桃の口元から、小さな笑みがこぼれた。
二人とも、さっきまで命懸けで自分を助けてくれていたはずなのに。
今はまるで、昔からこうして言い合ってきた家族のようだった。
その光景が、不思議と心を落ち着かせてくれる。
紫が空気を変えるように手を叩く。
「よし!」
「暗い話はここまで!」
胡桃が目を丸くする。
「ちゃんと自己紹介しようよ!」
雅也は呆れたように笑う。
「今さらか。」
「自己紹介に今更とかないから!」
紫は胸を張った。
「私は藤乃 紫!」
紫は雅也を指差す。
「はい、次!」
雅也は小さくため息をつく。
「奥川雅也、売れへん作家や。」
胡桃は二人を見比べる。
少しだけ迷ってから、ゆっくりと頭を下げた。
「白石胡桃です。」
「……助けていただいて、本当にありがとうございました。」
雅也は照れくさそうに頭を掻いた。
「礼はええわい。そう、改まって言われて小恥ずかしいわ」
胡桃は思わず笑ってしまう。
さっきまで張りつめていた胸の痛みが、少しだけ軽くなった気がした。
部屋には穏やかな空気が流れていた。
同じ頃。
鬼神会の事務所では、加藤蓮が机の上の木箱を見つめたまま、立ち尽くしていた。
封は元に戻り、邪神像はおそらく中に戻っている。
「……嘘やろ」
喉がひりつく。
あれだけのものを、解呪するとは。
若頭の言葉が、不意によみがえった。
――奥川雅也には手ェ出すな。
――手ェ出したら、あの女が来る。
その時は笑い飛ばした。
極道崩れの売れない作家など、始末してしまえば終わりだと。
雅也の首を土産に持っていけば、組でも一目置かれる。
そう考えていた。
「……最悪や」
思わず舌打ちする。
もしその女が来るなら、自分で対処しなければならない。
そう考えただけで胃の奥が重くなった。
煙草を灰皿へ押しつける。
「今日は帰るか……」
そう呟いた瞬間だった。
ギィ、と静かにドアが開く。
ノックはなかった。
誰も開けたはずのない扉が、ゆっくりと内側へ動いていく。
そこに、一人の女が立っていた。
紫色の和服。
夜の闇よりなお深い黒髪。
右手には、見たこともない形をした薙刀が静かに下げられている。
加藤は思わず息を止めた。
女は一歩、部屋へ入る。
「山中の若頭から、聞いてはらへんかったんですか」
穏やかな京言葉。
まるで世間話でも始めるような口調だった。
「奥川雅也には、手ェ出したらあかん、て」
加藤はようやく我に返る。
「……あんたが例の女か」
女は小さく微笑んだ。
「中禅寺静、いいます」
その笑みは柔らかい。
だからこそ、不気味だった。
「いつもやったら警告だけで済ますんどす。後処理が面倒やさかい」
一歩。
また一歩。
静かな足音だけが事務所に響く。
「せやけど今回は、あきまへん。」
薙刀が静かに持ち上がる。
「少し、オイタが過ぎましたえ。」
加藤はゆっくりと後ろへ下がった。
「調子に乗るな。」
口では強がる。
だが、自分の声が震えていることに気付いていた。
「一人で来たのが運の尽きや。」
事務所の奥から、影が一つ歩み出る。
軍服姿の大柄な男だった。
鍛え抜かれた体躯。
腰には拳銃。
逆手に握られた軍用ナイフ。
その視線には一切の無駄がない。
「紹介したる。」
加藤は笑みを浮かべる。
「元スペツナズ(ロシア特殊部隊)や。」
男は無言のまま静を見据える。
「金は掛かったが、それだけの価値はある。」
加藤が肩をすくめる。
「終わりや、クソ女。」
静は男を一瞥すると、小さくため息をついた。
「……そうどすか。」
その一言だけだった。
部屋の空気が、すっと冷える。
男の姿が消えた。
次の瞬間には静の目前へ踏み込み、ナイフが閃く。
加藤の目では、その動きすら追えなかった。
鋭い金属音。
何かが床へ転がる音。
そして。
事務所に悲鳴が響いた。
男のものだった。
加藤は思わず後ずさる。
「な……」
何が起きた。
そう口にする前に、照明が一度だけ明滅した。
視界が白く途切れる。
――どれほど時間が経ったのか。
加藤には分からなかった。改めて自分の足を見る。無数の五寸釘が刺さり、ズボンには血のついていないところがない。
冷や汗だけが頬を伝う。
視線を上げる。
静は先ほどと変わらぬ姿で立っていた。
着物の乱れ一つない。
まるで何事もなかったかのように。
「……殺してくれ。」
加藤は掠れた声を絞り出す。
「頼む……。」
静は困ったように首を傾げた。
「もう少し骨のある方やと思うてました。」
少し寂しそうに笑う。
「今の極道は、ほんまに気ぃ弱うなりましたなぁ。」
加藤は返事もできなかった。
静は薙刀を肩へ担ぐ。
「まぁ聞きたいことは、だいたい聞けました。」
静かな声だった。
部屋の奥から、黒い影がゆっくりと伸びる。
それを見た加藤は、一瞬だけ目を閉じる。
その顔からは、不思議と恐怖が消えていた。
ようやく終われる。
そんな安堵だけが残っていた。
静はその表情を見届けると、口元にかすかな笑みを浮かべる。
「ほな、さいなら。」




