魔性の個室
ラウンジの一番奥にある個室は、不気味なくらい静かだった。
ソファに腰を沈めた奥川雅也は、目の前のボトルを眺めながら苦笑する。
「……ラウンジの個室で一人、手酌か。仕方がないとはいえ、変な感じやのう」
煙草を一本咥え、火を点ける。紫煙がゆっくりと天井へ昇っていく。
依頼を持ってきたのは珍しく琴乃だった。
「知り合いの店なんですけどね」
と、琴乃は珍しく歯切れの悪い口調で切り出した。
「この個室だけ妙な事が起こるらしいんですよ」
ボトルの中身が、誰も飲んでいないのに減っていく。客が理由もなく気を失い、朝まで目を覚まさない。ひと月前まで働いていた女性スタッフは、辞める間際にこう漏らしたという。
「――ずっと、見られてる気がするんです。この部屋だけ」
監視カメラを確認しても、そこには誰も映っていなかった。ただそこで接客するキャストも客もみな口々にこう言うのだ。
「なにか嫌な感じがする」と
男と女が欲と打算を持ち寄る場所だ。恨みも嫉妬も未練も、他のどこよりも溜まりやすい。怪異が巣食うには、これ以上ない環境ではある。
「まぁ、出るやろな」
そう呟き、ウイスキーを注ごうとした手を止める。
「……仕事中や、ほどほどにしとかんとのう」
ボトルを戻した、その時だった。
ふわり。
人の気配もなく、一人の女が隣へ腰を下ろしていた。
黒いドレスに、青白い肌。長い髪が、動くたびに微かに揺れる。店のホステスには見えない――そもそも、この個室に他の客はいなかったはずだ。
雅也の目つきが変わる。
「……現れたか」
咥えていた煙草を外し、その火を女へ向ける。怪異によっては、それだけで十分効く。
だが女は微笑むだけだった。グラスを手に取り、氷を転がし、手慣れた所作でロックを作る。まるで本物のホステスのような、自然な手つきだった。
カラン、と氷が鳴る。
雅也は火を近づけようとした。
しかし。
「……っ」
腕が止まる。指先一本、動かない。
(なんや、これ……)
声を出そうとしても、喉が言うことを聞かなかった。全身が鉛になったように重く、視界だけが女の瞳に吸い込まれていく。
女と目が合う。
「しもた……魅了か」
声だけは、辛うじて絞り出せた。
「能力持ちが、そのまま怪異になった類か……厄介や」
女は答えない。ただ楽しそうに笑い、煙草を雅也の口から取り上げると、灰皿へ放り投げた。そして雅也の肩へ手を置き、ゆっくりと押し倒していく。
(なるほど、これは厄介なパターンや)
(この奥川雅也がキャバ嬢に誘惑されるとは笑えんのう)
そこまで考えて、雅也は自分の思考に舌打ちしたくなった。今それを気にしてる場合か、と。だが身体は指一本動かせないまま、女の顔が近づいてくる。
その瞬間だった。
天井が軋む音。
ギシ……
女が顔を上げる。
「?」
次の瞬間。雅也の口元がにやりと笑う。
「下ばっかり気ぃ取られとるのう」
天井板を蹴破る勢いで紫が飛び降りた。
「頭がお留守やで!」
足刀が女の首筋へ炸裂する。鈍い音と共に、女は床へ叩きつけられた。
魅了が解ける。指先に感覚が戻る。
「助かった!」
雅也は転がるように距離を取り、上着から拳銃を抜く。
轟音。銀の弾丸が女を撃ち抜いた。
女は苦悶の声を上げることもなく、ただ驚いたようにこちらを見つめ――それから黒い霧となって消えていく。最後まで、名前も、恨み言も、何も残さなかった。
静寂が戻った。
雅也は深いため息をつく。
「……もっと早よ来いや」
紫は肩で息をしながら睨む。
「無茶言わないでよ。天井裏、配管だらけなんだから。ここまで来るだけで大変だったんだからね」
「結構、ギリギリやったぞ」
「先生が油断してるからでしょ」
「油断なんぞしとらんわい。ちょいと想定外やったんや」
「同じだよ、それ」
雅也はソファに座り直しながら、乱れた襟元を直した。
「しかし、恰好がつかんのう」
「気にするとこ、そこ?」
「転ばぬ先の杖とはよく言うたもんや」
「何それ?私は杖なの?」
「お前はやっぱりもうちょっと本を読まんかい」
雅也はボウモアをグラス注ぎながら、あきれる。




