邪神招来 前編
「その娘か」
煙草の煙が薄く漂う事務所で、男はソファに深くもたれたまま、顔だけをこちらへ向けた。
鬼神会若頭補佐――加藤蓮。
三十代半ば、仕立てのいいスーツをわざとだらしなく着崩している。柔和な笑みの下で、目だけが動かない。獲物の値踏みをする獣のような静けさだった。
「はい」
若い衆が、隣で震える女子高生の肩を軽く押した。
「組長とパパ活しとったJKですわ。姐さんに見つかりましてね。『灸据えとけ』言われたんで連れてきました」
加藤は返事をせず、煙草を挟んだ指先で女子高生を示すように顎をしゃくった。若い衆が心得たように口を閉じる。
「違います……」
女子高生の声は、悲鳴になりきれずに震えていた。
「食事するだけって聞いてたんです。本当に、それだけなんです」
制服はきちんと着こなし、髪も黒く、化粧っ気もほとんどない。装飾らしい装飾のない、ごく普通の女子高生だった。だからこそ、この事務所のソファに座っていること自体が、ひどく不憫に見えた。
(なんでこんなことに……)
全部、竜宮寺さんに言われたからだった。クラスの中心にいるあの子に、逆らえる人間はいない。教師ですら強くは出られない。以前、逆らった「あの子」は学校へ来なくなった。
だから、断れなかった。
食事だけ。危ないことはない。そう言われて、信じてしまった。
加藤は胡桃を見つめたまま、煙を細く吐いた。
(姐さんの悋気にも困ったもんや)
組長の女遊びは今さらのことだ。いちいち相手を締め上げているほど極道は暇ではない。とはいえ姐さんの顔も立てねばならない。適当に脅して帰す――加藤の中では、それで済む話のはずだった。
ふと視線が、女子高生の制服の校章で止まる。
(……ん?)
どこかで見た覚えがある。少し考えて、思い出した。
奥川雅也の家に出入りしていた少女――水見桃花。確か同じ制服だった。
加藤の口の端が、わずかに持ち上がる。
「お嬢ちゃん」
「……はい」
「名前、なんて言うん?」
「白石……胡桃です」
「胡桃ちゃんか」
加藤は灰皿に煙草を押しつけ、新しい一本を咥えて火を点けた。火が一瞬、彼の目の奥だけを照らす。
「胡桃ちゃんの学校に、水見桃花って子、おるやろ」
胡桃は目を瞬かせた。
「委員長です……。でも、あんまり話したことはありません」
「そうか」
加藤は満足げに頷いた。それだけ聞ければ十分だった。煙を天井へ吐き、しばらく黙って胡桃を眺める。何かを値踏みするような沈黙だった。
「胡桃ちゃん」
声は、さっきより一段柔らかい。だからこそ、胡桃の背筋が凍った。
「困ったことになったのう」
「……」
「うちの姐さん、怒ると怖い人なんや。たとえ、誤解でもはいそうですかで帰すわけにはいかんのや」
胡桃は黙って頷くしかなかった。喉が渇いて、声が出てこない。
「……私、どうなりますか」
加藤は首をわずかに傾げた。
「さて、どないしようかのう?」
その一言だけで、胡桃の肩がびくりと跳ねる。
加藤はすぐに相好を崩し、缶コーヒーを一本、机の上に滑らせた。
「飲み。顔色悪いで」
胡桃は震える手でそれを受け取った。冷えた缶の感触に、少しだけ強張りが緩む。
その隙を、加藤は見逃さなかった。
「実はな」
笑みは崩さないまま、声だけをわずかに落とす。
「俺も一つ、困っとることがあってな」
「……」
「胡桃ちゃんに、ちょっと手伝ってほしいことがある」
「手伝い……ですか?」
「難しいことちゃう」
煙を吐く。
「ほんの、お使いや」
「それをやれば……」
「姐さんには俺から話しとく。俺も若頭補佐を任された男やなんとかしたる」
嘘ではない。もっとも、どう話すかまでは、加藤自身も決めていなかった。まぁこんなものはどうとでもやりようはある。
胡桃は缶コーヒーを両手で包んだまま、唇を噛んだ。
やるしかない。というかそれ以外の選択肢を考える余裕がなかった。
学校を、家を、今の暮らしを――全部失うわけにはいかない。
缶の結露が、指の間を伝って落ちる。それだけの時間、胡桃は黙っていた。
「……やります」
声は掠れていたが、はっきりと届いた。
加藤は満足そうに頷き、ゆっくりと立ち上がる。
「交渉成立や」
差し出された手は、営業マンのそれのように穏やかだった。胡桃は、その手を握るしかなかった。自分が何に足を踏み入れたのかも知らないまま。
加藤は若い衆へ、視線だけで合図を送った。
若い衆は無言で、部屋の隅に置かれた古びた木箱へ目をやる。事務所の全員に近づくなと言っており、誰も、その箱には触れようとしない。何の霊力のない人間でも近づきたくないと思わせる、そんな禍々しさをそれは放っていた。
箱の奥で――
ちりん。
小さく、鈴が鳴った。
加藤は一瞬だけ笑みを消し、木箱をじっと見つめた。
「……もうすぐや」
誰にも聞こえないほど小さな呟きが、煙と一緒に事務所の空気に溶けていった。




