糸のない迷宮
「奥川さん、ちょっと一件、お願いできませんかね」
書斎の障子を開けるなり、神代が愛想よく笑った。三十過ぎのはずなのに、笑い方だけがどこか子供っぽい。人によっては屈託のない笑顔に見えるのだろうが雅也からすれば悪魔の嘲笑に見える。
「帰れ」
ノートパソコンから目も離さずに答える。
「話くらい聞いてくださいよ」
「どうせ組の仕事やろ」
「まぁ、そうとも言います」
ため息をつく雅也。
神代は肩をすくめた。
「冷たいですねぇ。けどあなだだって都合よく最近、組を利用してる。話ぐらい聞いても罰は当たらないでしょ?」
その一言に、雅也はようやく煙草を灰皿でもみ消した。
「……聞くだけや」
「さすが、それでこそ奥川雅也さんですよ。助かります、いろいろと」
「なんか含みがあるのう」
「気にしない、気にしない」
車で一時間、山道を登った先。雑木林に囲まれたコンクリートの廃墟が、夕闇の中に沈むように建っていた。色褪せた看板に、かろうじて文字が残っている。
神代曰く、組が一枚噛んでいるタワーマンション建設予定地がいわくつきの土地であり、一度雅也に見て欲しいとの事だった。
「先生も組関係となかなか関係断てなさそうだね」
にやにや、紫は笑う。
「しがらみいうもんはそういうもんや。俺もあかんと思ってるけどままならんわ」
「まぁ少々、面倒見がよすぎるのも問題ですね」
「厄介事を持ってくる奴が多すぎるんや」
『巨大迷宮アステリオン』
雅也はしばらく無言でそれを見上げていた。それから振り返り、銃口を神代の額に向けた。
「いきなりですねぇ」
神代は動じなかった。慣れている、というより、こうなることを最初から知っていたような静けさだった。
「こんな山ん中にタワマン建つかボケ。最初から全部喋れ」
風が雑木林を鳴らす。神代は長いこと黙っていた。やがて、諦めたように小さく息を吐いた。
「学生の頃、一回来たことがあります。付き合ってた女と」
雅也は黙って聞く。
「その子が、この迷宮で行方不明になりました。警察も探しました。俺も、さんざん探しました」
「見つからんかった」
「ええ」
「それで?」
「土地が倒産整理でうちに回ってきたんです。最後にもう一回だけ、探したかった」
神代は迷宮を見上げた。目の奥に映っているのは、廃墟ではなく、もっと昔の何かのように見えた。
「けど、妙な噂があります。入った人間が帰ってこない、と」
「巨大なアトラクションの廃墟に怪現象、ベタやのう」
「俺1人じゃ無理な気がしたので」
雅也は長い沈黙の末、煙草を咥えた。
「しゃあない。入るぞ」
迷宮の中は、静かだった。
足音だけが、コンクリートの壁に反響して増幅される。雅也は壁にマジックで矢印を書く。
「迷わんようにな。まぁ無駄だろうけど一応な」
数分後、振り返る。
印を付けた壁が、消えていた。通路そのものが、なくなっていた。
紫が乾いた声で笑う。
「意味なかったね」
「最悪や。まぁ迷宮の怪異なら、想定内や、この程度はな」
舌打ち一つ。だが誰も、それ以上は何も言わなかった。言葉を発すると、何かに聞かれる気がした。
重い足音が、遠くから近づいてくる。
ズシン。
ズシン。
現れたのは、牛頭の怪物だった。
「これはまた……、迷宮にミノタウロスか、分かりやすいのう」
「……なるほど、まだ生きているんだな」
神代が呟いた声には、恐怖よりも、どこか懐かしむような響きがあった。雅也はそれに気づいたが、今は聞く時間がなかった。
発砲。
轟音が壁に反響し、頭を撃ち抜かれた怪物が崩れ落ちる。
「最近、躊躇なく使うよね。終わり?」
耳を塞ぎながら紫が近づこうとするのを、雅也が止めた。
「待て」
牛の仮面を、慎重に外す。
中から現れたのは——青白い顔をした人間だった。
紫の声が震える。
「……人間」
その瞬間、奥から足音が重なった。1体。2体。3体。
「おいおいおい、ミノタウロスは1体ちゃうんかい」
「こっからが本番ってわけね」
構える紫。
そこからは、言葉にならなかった。銃声、蹴り、怒号。何体倒しても、奥から新しいマノタウロスが湧いてくる。倒すたびに、床に転がる死体だけが増えていく。弾倉を替える手が、いつの間にか震えていた。
「先生!これ多すぎない。何体いるの」
「知らん!おそらく長年取り込んだ人間全てを取り込んでる可能性がある」
神代はなんとか2人の邪魔にならない程度に敵の攻撃を避け、逃げ続けている。
大量のミノタウロスを退け、息も絶え絶えの3人。
「もう少しだけ……」
「神代、諦めろ。このままやとジリ貧やぞ」
今は落ち着いているいるが周囲にはまだ先程のミノタウロスの気配がそこかしこにする。
神代が初めて、感情をむき出しにした。
「お願いします。もう少しだけ!」
「もう少し待ったらなんぞあるんかい」
答えない神代。
奥から、また1体。
他のミノタウロスとちょっと違った雰囲気。
女物のコート。ロングスカート。小さなショルダーバッグ。手には斧を持っている。
神代の顔から、色が失せた。
「……朝陽」
怪物は答えない。ただ一直線に、神代へ向かって駆けた。
「神代!」
雅也の一発が、それを止めた。
神代は、崩れ落ちた怪物にゆっくりと近づいた。震える手で、牛の仮面を外す。
中から現れたのは——見知らぬ女だった。
だが、神代は構わなかった。
その亡骸を、静かに抱き締める。
「……遅くなって、ごめんな」
涙が頬を伝う。誰も、何も言えなかった。迷宮の壁が、その静けさをそのまま吸い込んでいくようだった。
長い時間が過ぎて、神代はようやく立ち上がった。不思議なくらい、穏やかな顔をしていた。
「もういいです。帰りましょう」
雅也はスーツの裏地をめくった。そこには黒い裂け目のような空間が、熱を持った布のように揺れていた。空気が変わる。焦げた匂いと、遠くで鈴が鳴るような音。
「入れ」
三人はその中へ飛び込んだ。景色が反転し——
次の瞬間には、いつもの雅也の書斎だった。
数日後。雅也は煙草を吸いながら、パソコンの画面を眺めていた。
紫が部屋に入ってくる。
「先生。この前の神代さんの話、なんか変じゃない?」
「気付いたか」
「朝陽さんって、中学生で行方不明になったんでしょ。でも、あの服……大人だった」
雅也は答えなかった。代わりに、パソコンの向きを変えて紫に見せた。
画面に開かれていたのは、古い新聞記事だった。
『敏腕記者・武石早苗 行方不明』
紫はその横に並んだもう一つの記事に目を移す。
『巨大迷宮アトラクションで中学生二人行方不明』
行方不明者。
神代隼人(15)
谷口朝陽(15)
紫の指が止まる。
「……神代さん、って」
「せや」
雅也は煙を吐いた。
「あの迷宮に、二回来たことになる」
「一回目は、学生の頃。」
紫は言葉を切った。続きを言うのが、少し怖かった。
雅也は答えなかった。答える気がないのか、答えを持っていないのか、紫にはわからなかった。
「じゃあ、その敏腕記者の記事は?」
「こいつは政治家の裏ネタを生業にしとったジャナリストや。のいつの持っとるノートには政治家の裏情報が山ほど載っとる言われとる。1冊で億が動く」
「神代さんは、それを回収するために……」
「そっちが本筋やが……」
「恋人も探してた?」
雅也は灰皿に煙草を押し付けた。
「あいつが探しとったんが、恋人なんか、記者のネタなんか、それとも——」
言葉が途切れる。
紫が続きを待ったが、雅也は口を開かなかった。ただ、あの日、神代が一度も言わなかった言葉を思い出していた。
『助けたい』とは、一度も言わなかった。
言ったのは、ただ一言だけだった。
『もう一度、捜したい』
その一言だけが、今もどこか引っかかっている。
雅也は新聞記事を閉じた。
「どこまでが真実なんやろなぁ」
紫は何か言おうとして、やめた。
部屋に、紫煙だけが静かに漂っていた。




