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開かずの化学準備室 後編

挿絵(By みてみん)

旧校舎三階。

階段を上がった瞬間だった。桃花が足を止める。

「あれ……。」

「どうした。」

「ここに上がった瞬間少し、気温が下がったような」

「奇遇だな私も今、そう感じたぞ」

と根地夕子はどこか面白そうに答える。

「まぁ霊的感度が高くない桃花でも違和感を覚える程度にはようないとこなんやろな」

黙る桃花

やがて、一枚の扉の前に着く。

古びたプレート。

『化学準備室』

雅也はしゃがみ込んだ。鍵穴を見る。

懐から細い工具を取り出す。

カチャ。カチャ。

数秒。「開くぞ。」

「初めて見たがあんた、昔やってたのか?慣れたものだ」

夕子が茶々を入れる。

「やかましいわ。生来器用なんや」

「先生が泥棒なんてケチな稼ぎしないもんね」

「お前もいらん事言わんでええねん」

雅也は無言で拳銃を抜く。

夕子が目を細めた。

「前から思っていたが、それは常に持ち歩いているのか。」

「こっちの方が早い」

「術は。あんたは使えるだろ」

「所詮は付け焼き刃や。威力も安定せぇへんし、相性もある。面倒いんや」

「見た目はいかにも極道なのに職質されないのか。」

「余計なお世話や。俺は善良な一市民やぞ」

扉をゆっくり開ける。

薬品の臭い。機械の低い駆動音。部屋一面に並ぶ無数の装置、床を這うケーブル、そのすべてが中央の椅子へと集まっていた。

椅子には、黒いドレスを着た女性が座っていた。眠るように、静かに。無数のコードが身体へ繋がっていた。

誰も声を出せない。

その沈黙を破るように、部屋の奥から白衣の男が現れた。

目は落ち窪んでいた。だが、その眼差しに乱れはなかった。ただ、何かを長いあいだ見つめ続けてきた人間の目だった。

「……誰だ。」

城福先生だった。

城福はゆっくりと振り返った。

「ここは立ち入り禁止のはずだが。」

静まり返った化学準備室に、その声だけが響く。

「それを言うなら先生もですよ。」

夕子が肩をすくめる。

「教師も旧校舎への立ち入りは禁止されているはずです。」

城福は夕子を一瞥した。その目にわずかな動揺が走る。

「金子先生も心配していました。」

桃花が一歩前へ出る。

「こんなところで何をしているんですか。」

城福の表情が一瞬だけ和らいだ。

「……金子先生か。」

懐かしさとも後悔ともつかない笑みが浮かぶ。

「あの人には迷惑ばかりかけてしまったな。」

だが、その笑みもすぐに消える。

「それでも、私はやめられない。」

桃花は黒いドレスの女性を見た。無数の管に繋がれ、椅子に腰掛けたまま微動だにしない。

「これは……。」

「見れば分かるだろう。」

夕子が静かに言う。

「フランケンシュタイン博士よろしく、奥さんを蘇らせようとしているといったところかな。」

「違う。」

城福は即座に否定した。

「化学教師がそんなものに縋るとは、お笑いだ。」

「いえ。」

桃花が首を振った。

「私は先生の気持ちは理解できます。」

全員が桃花を見る。

「愛する者を失えば、人は常識なんて簡単に捨てます。」

「だからこそ危険なんですよ。」

桃花が静かに言った。

「ここじゃなくても……。」

「いや。」

城福は黒いドレスの女性へ歩み寄る。

「ここでなければ駄目なんだ。」

雅也が煙草を指先で回しながら呟いた。

「溺れる者は藁でも掴む、か。」

「先生」

紫が小声で言う。

「……さっきから。」

「ああ。」

雅也の目は女から離れない。

「気ぃ抜くな。」

「あらゆる方法を試した。」

城福は女性の肩へ手を置く。

「医学も薬学も宗教も呪術も。何一つ届かなかった。」

声が低くなる。

「だから私は奇跡を待った。」

「奇跡?」

「この校舎では理解を超えた現象が幾度も起きていると聞いている。死んだはずの生徒が歩いている、なんて噂も聞く」

城福の声が熱を帯びる。

「ならば一度くらい、私にも起きていいはずだ!それが億に一つの可能性だとしても」

そう叫び、女性を強く抱き寄せた。

その瞬間だった。

女性の指先が、かすかに動いた。

雅也の瞳が細くなる。

城福は気づかない。顔を女性の肩へ埋めたまま、小さな声で何かを繰り返していた。名前だった。妻の名前を、何度も何度も呼んでいた。

女性の瞳がゆっくりと開く。

焦点が合う。まっすぐ城福を見つめる。

「佳南……!」

歓喜に震える声。城福は顔を上げた。涙が頬を伝っていた。笑っていた。こんなにも純粋な笑顔が、この部屋に似合わなかった。

「戻ってきてくれた……。」

女性の口元がゆっくりと歪む。

それは笑顔ではなかった。

「離れろ!」

雅也が叫ぶ。

だが遅かった。

女性は城福へしがみつくように抱き返す。城福は抵抗しなかった。それが妻だと信じたまま、抱擁を受け入れた。

次の瞬間、悲鳴が上がった。城福の妻は首筋に噛みつき、鮮血が吹き上がる。

桃花が息を呑む。紫が一歩踏み出す。雅也はすでに拳銃を抜いていた。

乾いた銃声が化学準備室へ響く。

怪異は横へ跳んだ。床すれすれを滑るようにジグザグに移動し、一瞬で雅也との距離を詰める。

だが、その軌道がわずかに変わった。

狙いは紫だ。

怪異は一直線に紫へ襲いかかる。

「来る!」

紫は半歩だけ踏み込んだ。突進に合わせて鋭いアッパー。怪異の顎が跳ね上がる。着地する暇も与えない。喉。鳩尾。流れるような連撃。

怪異は背後の装置へ叩きつけられた。

その隙に雅也が続けざまに引き金を引く。銃声が部屋中へ反響する。

しかし怪異は倒れない。

笑った。低く、耳障りな笑いだった。

「逃げるぞ!」

雅也が紫の腕を掴む。

「倒さないの?」

「倒せる相手ちゃう!」

二人は駆け出した。

廊下へ出る直前、雅也は振り返った。

桃花がいない。夕子もいない。

逃げれとるな。二人がすでに離脱済みだと理解する。そのまま駆け続けた。

階段を駆け下りる。背後では、怪異の笑い声だけがいつまでも追いかけてきた。

民俗学研究部。

慌てて入る。夕子は静かに鍵を閉めた。

「間に合ったか。」

部屋の隅では桃花が肩で息をしている。

夕子が置いてあった冷めた紅茶を口へ運ぶ。

「なかなか面白いものであったがやはり自分で体験するものではないな。さすがに私も今回は肝が冷えた」

雅也は煙草へ火をつける。

「……あれは来るんか。」

「基本的に三階以上の怪異は下へ降りられない。」

夕子は窓の外を見た。

「絶対ではないがね。」

紫が壁にもたれかかる。

「先生、さっき倒せたんじゃ……。」

「勝てんわけやないが絶対でないしのう」

雅也はゆっくり煙を吐く。

「他の怪異が寄ってくる可能性もあるし、祓う事が目的ちゃうしな。」

夕子がくすりと笑う。

「ひとつだけ言える。」

紅茶を置いた。

「死者は蘇らない。」

静かな声だった。夕子はそれ以上続けなかった。ただ窓の外、三階の方角を一度だけ見て、またカップを持ち上げた。

「蘇るのは、死者の姿を借りた別の何かだ。それだけだ。」

誰も反論しなかった。

城福先生がどうなったかを、この場の誰も口にしなかった。

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