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開かずの化学準備室 前編

挿絵(By みてみん)

窓の外では細かな雪がちらつき、校舎全体が灰色の空に沈んでいた。

人気のない廊下を歩きながら、女子生徒たちがひそひそと話している。

「昨日も見たんだって。」

「何を?」

「城福先生。」

「……また?」

「旧校舎の三階。」

「開かずの化学準備室?」

一人が小さく頷く。

「あそこ、夜になると灯りが点くんだって。」

「でも先生、去年から休職中じゃん。」

「だから怖いんでしょ。」

「奥さんが亡くなってからちょっとおかしかったもんね」

「やめなよ。」

笑い声が上がる。

だが、その笑いはどこかためらいみたいなものがあった。

桃花はその噂話が聞こえる距離で立ち止まったまま、廊下の先を見ていた。誰もいない。冷たい蛍光灯の光だけが、白くタイルを照らしていた。

(……また広がってる。)

城福先生は化学の教師だった。

生徒思いで、化学が苦手な生徒にも根気よく付き合ってくれる先生。文化祭では率先して準備を手伝い、準備室でコーヒーを淹れてくれるような人だった。そして誰より奥さんの話を嬉しそうにしていた。

「昨日、嫁がね、また連れてってくれって言うんだ。困ったもんだ」

「また嫁に付き合って、今度は姫路だぜ?参ったよ」

そんな話を聞くたびに、生徒たちは笑っていた。

その先生が、去年の冬。

妻を事故で亡くした。

葬儀を境に学校へ姿を見せなくなった。やがて休職。そして、旧校舎三階で見かけた——そんな噂だけが独り歩きを始めた。

桃花はスマートフォンを取り出した。

画面には、

『奥川さん』

という名前。少しだけ迷ってから、電話をかけた。

「……開かずの化学準備室?」

紫が怪訝そうに眉をひそめる。

雅也は煙草をくわえたまま雑誌を読んでいる。

「そうなんです。」

桃花は頭を下げた。「学校で噂になっていて……。」

「ベタやのう。」

雑誌から目も上げず雅也が言う。

「学校の怪談言うたら定番やな。」

「今回はちょっと事情が違うんです。」

桃花は城福先生のことを話し始めた。妻を亡くしたこと。休職したこと。旧校舎。目撃談。先生がおかしくなったという噂。

部屋は静まり返る。

雅也は煙草を灰皿に押し付けた。

「……で?」

「その真相を知りたいって人がいて。」

「物好きな話やのう」

「城福先生に昔お世話になった卒業生です。」

「一応、注意しとくが俺は妖怪退治を生業にしてるわけちゃうから、あんま安請け合いすんなよ?」

 桃花は申し訳なさそうに封筒を差し出した。

「学生なので多くはないんですが……。」

「ええわい、学生から金取ったってしゃあないわい」

「すみません。」

 雅也はソファにもたれる。

「怪異なんぞ関わらんに越したことはない。」

「今まで散々関わっといて。」

紫はあきれたように茶々を入れる。

「全部しゃあなしや。やりとうてやってるわけやない」

桃花は小さく俯く。

「……迷惑、でしたか。」

数秒の沈黙。

雅也は大きく息を吐いた。

「ここまで聞いたらやらんわけにはいかんやろ。」

煙草にまた火をつける。

「しゃあない。」

桃花の顔が明るくなる。

「ありがとうございます!」

紫がにやにやと笑う。

「どうせ最初から行く気だったくせに。」

「元・灰羽組若頭補佐の尻はそんな軽ないねん。」

雅也は立ち上がる。

「大人って面倒くさい。」

「うるさいのう。結果的に行くんやからええやろ」

上着を羽織る。

「さっさと行くぞ。」

旧校舎。

夕暮れ。

校庭には誰もいない。古びた四階建ての建物だけが夜の中に静かに立っていた。

「先生?」

「情報が足りん。」

煙草を一本くわえる。「こういう時は現場より先に、その場所を知っとる奴に聞いた方が確実や。」

紫が苦笑する。

「あいつ?私、あの人嫌いなんだけど」

「俺かて会いたないわい。しゃあないやろ。怪異に対しては情報が命なんや」

民俗学研究部。

古びた木のプレートが下がる部室の前で、雅也はためらいなく扉を開け放った。

「よう、邪魔するで。」

部屋の奥で優雅にティーカップを持っていた少女が、ゆっくりと顔を上げる。

紺色のブレザーに白いブラウス。校章の入った制服をきっちりと着こなした根地夕子だった。いつもの奇妙な私服姿ではない。制服になるだけで年相応の女子高生に見える——いや、そう思わせるだけで、漂う異質さは何ひとつ変わっていなかった。

「やあ。君らから来るとは珍しいな。ちょうど今、お茶していたところだ。」

口元だけで笑う。

「制服は初めて見るのう。」

雅也がぼそりと言う。

「なんだい、ムラムラするかい。」

「いや、ほんまに学生やったんやなと校舎に住み着く妖怪や思てたわ」

「現役の女子高生に失礼な男だな」

「無礼の化身がよう言うわ」

四人は部室の古びたテーブルを囲む。夕子が手際よく紅茶を淹れる。古い校舎の一室だけが、妙に暖かかった。

雅也は懐から煙草を取り出した。

「おっと。」

夕子が人差し指を立てる。

「それは遠慮願おうか。」

「……ちっ。どこも世知辛いのう」

「君の周りが喫煙に寛容すぎるんだよ」

舌打ちだけして煙草をしまう。

紫が笑う。

「先生もアイコスとかに変えたら?」

「あんなもん吸うくらいなら禁煙するわ」

「どうせ禁煙しないでしょ。」

桃花は苦笑しながら事情を説明した。城福先生のこと。去年、妻を亡くしたこと。旧校舎三階。開かずの化学準備室。最近の目撃談。

夕子は最後まで黙って聞いていた。カップを置く。

「なるほど。」

一拍置いてから静かに言う。

「城福先生がこちらへ何度か来ていたのは知っている。だが、三階へ行っていたとは。」

雅也が眉を寄せた。

「なんか問題あるんかい。」

夕子は笑わなかった。

「君たちは知らないだろうが、この旧校舎そのものがS級の心霊スポットなんだ。」

部屋の空気が少し冷えた気がした。

「私は基本、この部室から半径二十メートル以上は行かない。」

「なんでや。」

「帰れなくなる可能性があるから。」

桃花が息を飲む。紫も珍しく口を閉じた。

「この建物は四階建てだ。」

夕子は指を一本立てる。「一階は異常なし。二階は比較的安全。三階は——」

少し間を置いた。

「危険だ。」

四本目を立てる前に、夕子はカップを持ち上げた。紅茶を一口飲む。それから、ほとんど独り言のように言った。

「四階には近づかない方がいい。理由は知らない。ただ、近づいた人間がまともに戻ってきたことがない。それだけだ。」

「なんなんや、それ。」

雅也が呆れたように笑う。夕子は肩をすくめる。

「さてね。」

その一言だった。

「……調べとるんちゃうんか。」

「調べている。だが、この校舎は厄介でね難儀しているわけさ。」

窓の外を見た。その声音には、初めて僅かな警戒が混じっていた。

「以前、専門家に三階の調査を依頼したことがある。」

「どうなった。」

「三十分で戻ってきた。『ここは危険すぎる。こんな場所で生活しているあんたはは頭がおかしい』と言われた。」

「ぐうの音も出ない正論や。」

雅也が立ち上がる。

「で、開かずの化学室について心当たりは。」

「ある。ただし、中で何が行われているかは知らない。」

「なら行くしかないか。面倒いのう」

紫がため息をつく。

「今の話聞いて行くの?」

桃花も青い顔をしている。

「行かな、なんともならんやろ。俺、一人で行くからお前らは」

二人とも首を横に振った。「依頼したの私ですから。」「最後まで付き合うよ。桃花も心配だし」

雅也は苦笑する。

「こっちはこっちで面倒やのう。」


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