夜更けの誤算
深夜。
静かに鍵が開く。奥川雅也の家へ入ってきたのは静だった。物音を立てないように戸を閉める。
廊下の先、書斎の明かりがまだ点いていた。
覗き込むと、雅也がパソコンに向かっている。眉間に皺を寄せ、灰皿には吸い殻の山。完全に締切前の顔だった。
「……あかんやつやね」
静は苦笑する。どうせまともなものも食べていないのだろう。明日は何か作ってやろう。そう思いながら台所を片付けていると、ふと名案が浮かんだ。
「今なら紫ちゃんと一緒に寝れるんやない?」
いつもなら全力で拒否される。だが今日は違う。この時間なら熟睡しているはずだ。
静は忍び足で二階へ向かった。
紫の部屋。そっと襖を開ける。暗闇の中、布団がひとつ。人の気配もある。
「ふふ」
静は布団の中へ滑り込んだ。目当ての温もりを探り当てて、満足そうに頷く。そして顔を出した。
「紫ちゃん、お姉さんと──」
そこで止まった。
目の前にあったのは、見慣れたシルエットではない。
「……あら?」
桃花だった。すやすや眠っている。
静はしばらく固まった。そういえば最近、紫は雅也の書斎で寝ることがあると聞いた気がする。
「しまったわ」
今さら出るのも不自然だった。桃花は起きない。静は天井を見上げて、数秒考えた。
「……まぁええか」
静が悪い笑みを浮かべる。
翌朝。
書斎で寝ていた紫は目を覚ます。雅也の方へ視線を向ける。徹夜明けの雅也が机に突っ伏して寝ている。原稿はどうやら終わったらしい。
そのままリビングへ向かう。
「おはよう」
「あら、紫ちゃんおはようさん」
エプロン姿の静が振り返った。
「静さん来てたんだ」
「昨日の夜からね。近くに寄ったから」
「雅也さんは?」
「明け方に終わったーって叫んでた」
「終わったんやね。せやったらしばらく寝かせてあげましょか」
「あの感じじゃ夕方まで寝てそう」
その時、階段から足音が聞こえた。桃花が降りてくる。
「おはよう」
「……うん」
妙に歯切れが悪い。顔も少し赤い。
「どうしたの?」
「いや、その……紫、ちょっとシャワー借りるね」
「えっ、いいけどなんで?」
桃花が静を見る。静はにっこり笑って、人差し指を唇に当てた。内緒。そんな合図だった。
桃花の顔がさらに赤くなる。
「えっ」
紫が怪訝な顔をする。
「何その反応」
「別に?」
「絶対何かあるでしょ」
「やかましいのう」
背後から声がした。雅也だった。髪はぼさぼさ、シャツはしわだらけ。完全に徹夜明けである。
「女三人集まると姦しいとはよう言うたもんや」
欠伸をする。
「先生、静さんと桃花がなんか怪しい」
「なんやそれ」
雅也が二人を見る。静は妙に機嫌がいい。桃花はなぜか目を合わせない。
数秒、視線を往復させる。眉間に皺が寄った。やがて、その皺がすっと消える。
「……静」
「はい?」
「お前、まさか」
「さぁ、何のことやら」
「桃花の部屋で寝てへんやろな」
「ふふ、いややわ。そないな事、するわけあらへん」
どこか白々しい。それだけで答えは出たようなものだった。雅也は深いため息をついた。
「お前、大概にしとけよ。通報されても俺は知らんぞ」
「人聞き悪いなぁ。桃花ちゃんも満更やなかったみたいやし」
「それを世間では十分アウトやねん」
「桃花ちゃんもよかったやろ?」
「言わないでください」
桃花が顔を覆った。耳まで赤い。だがその仕草には、戸惑いと同じくらい、どこか恥ずかしそうな気配も混じっていた。
「何の話?」
紫だけが状況についていけない。
「知らん方がええ」
雅也が即答した。
「なんで」
「普通の人生を歩む上で知らんでええ事がある。これはそういう類の話や」
「いや、なんか怖いんだけど」
静は楽しそうに笑う。桃花は恥ずかしそうに俯きながら、それでも口元はわずかに緩んでいた。雅也はあきれるように煙草に火をつける。
いつもの朝だった。
「ほな朝飯にしましょか」
「賛成」
紫が席に着く。
雅也はため息をついて、畳にゆっくりと座り、灰皿に灰を落とす。
(しばらく紫は書斎で寝かせとこ)
声には出さなかったが、その横顔は本気だった。




