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拳鬼と帰ってきた場所 後編

 挿絵(By みてみん)

 冬の冷気が庭に満ちていた。

 向かい合う二人。

 趙慶は肩を回しながら笑う。

「意外だな。家の中で仕掛けてくると思っていた」

 雅也は煙草に火をつける。

「家が壊れるやろうが」

 紫煙を吐く。

「大体、紫も桃花もおるのに始められるかい」

「しかしあんたみたいな素人が、俺みたいな経験者と正面から戦うのは分が悪いんじゃないか?」

「ほう」

「それこそ室内の方が搦め手も使えただろう」

 雅也は鼻で笑った。

「お前が空手何段か知らんけどな」

 煙草を咥える。

「こっちは喧嘩百段や」

 手はポケットに入ったまま。構えすらない。泰然自若。

 趙の目が、わずかに細くなった。

「ごちゃごちゃ言うとらんと来いや」

「なら遠慮なく」

 地面を蹴る。一気に間合いを潰し、渾身の正拳が雅也へ伸びる。

 その瞬間、足裏の感触が変わった。

 ズドン。

 趙は地面ごと落下した。深い穴の底。見上げると、縁から雅也が顔を覗かせていた。

 パスッ。パスッ。額に二発。モデルガンの弾が当たる。

「痛っ」

「生きとるな」

「落とし穴か。ずるくないか?」

「今日はこれで勘弁せえや」

 雅也は肩を竦める。

「あんたとはやりとうないんや」

 しばらく沈黙。やがて趙は笑った。

「参った。そうか、あんたはインテリ派だったな」

 そう言って穴の底へ座り込む。

 縁側で、紫と桃花がその様子を見ていた。

「先生、あんなのいつ掘ったの?」

「昨日。神代んとこの若いの借りてな。遅かれ早かれ、蹴りつけんとしつこく付きまとわれそうやったからな」

「だから昨日ずっと庭いじってたんだ」

「こういう時は便利なんやがのう。普段の管理が面倒なのがのう」

「せっかくあるんだし、家庭菜園でもやれば?」

「アホ言え、まだそんなんする歳ちゃうわ」

 桃花は思わず吹き出した。

 本当に、この人たちは変わらない。何ヶ月も自分が抱えていた重苦しさが、急に馬鹿らしく思えてくる。来づらかった。顔を合わせづらかった。

 でも、そんなのは自分だけだったのかもしれない。

 誰も責めない。誰も問い詰めない。ただいつも通り、そこにいる。

「もうちょっと殴り合うと思った。「男の決闘みたいな」

「せやったらお前が相手したれや。お前の師匠やろ」

「嫌だよ。師匠、一回組手始めると長いんだもん」

「酷い弟子だな」

 穴の底から声がした。

 雅也が桃花の方を見る。

「ほな、桜花庵でも行くか。せっかく桃花も来てるし、」

 紫が即座に反応した。

「行きたい。行きたい。」

とはしゃぐ紫。

「お前はほんま、色気より食い気やのう」

「もう先生、女子にそんな事言っちゃだめだよ」

強めの鉤突きが雅也の脇腹に刺さる

「やめろや。また折れるやろ」

 いつものやり取り。

 その軽さに紛れて、桃花はしばらく何も言えなかった。言葉を探しながら、何度も口を開きかけては閉じた。

「奥川さん」

「ん?」

 桃花は俯いたまま、声を絞り出した。

「私……また来てもいいんでしょうか」

 一瞬だけ、静寂が落ちた。

 紫も、雅也も、何も言わなかった。穴の底の趙でさえ、口を挟まなかった。

 雅也は不思議そうな顔をした。それから、ごく当たり前のように言った。

「何言うとるんや。いつでも来たらええがな。いまさら、ひとりもふたりも変わらんわい」

 桃花は目を丸くした。

「来たら紫も喜ぶやろ」

「そうそう、先生と二人っきりだとなんか暗いんだよね」

「やかましいわ。お前はもうちょっと遠慮せえ」

「だから桃花も遠慮なく来てよ」

「うん」

 桃花が頷く。

 桃花は目を伏せた。胸の奥が、じんわりと温かくなっていく。何かが、ようやく元の場所に収まったような感覚だった。

「そうそう」

 紫が立ち上がる。

「先生と二人だと退屈なんだよ。全然相手してくれないし」

「お前は暇やからええわい」

 雅也はため息をついた。

「俺は仕事しとるんやぞ」

「はいはい」

 紫は笑う。

 その時だった。

「俺も行こうかな」

 全員が振り返る。

 いつの間にか穴から出てきた趙慶が、泥だらけで、満面の笑みで立っていた。

「こう見えて甘い物には目がなくてな」

 沈黙。

 雅也が額を押さえる。

「……あんたも来るんかい」

「いいじゃないか、せっかくの喧嘩をうやむやにされたんだ、それくらいの埋め合わせはいいだろう?」

 趙は笑う。

「次は落とし穴の無い場所でやろう」

「次はM2機関銃でも用意しとこうかいのう」

「それでも俺の方が強いがな」

「へっ言うとけや」

 雅也が即答すると、その反応が面白かったのか趙は豪快に笑った。

 冬空に笑い声が響く。桃花も紫もつられて笑った。

 久しぶりに、本当に久しぶりに、自分が帰って来られた気がした。

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