拳鬼と帰ってきた場所 前編
奥川雅也の家の前で、桃花は立ち尽くしていた。
冬の冷たい風が頬を撫でる。
ここまで来るのは何度目だろう。来ては帰り、来ては帰りを繰り返していた。チャイムに伸ばしかけた指を、何度も引っ込めた。
蒼神椿の一件以来、あの喫茶店で過ごした時間も、交わした言葉も、自分の中でうまく形にならなくなっていた。全部が嘘だったわけではない。だからこそ、その時間を知っている人たちの顔を見るのが少し怖かった。
紫。雅也。誰も悪くない。悪くないからこそ、気まずかった。
「……帰ろうかな」
小さく呟いた、その時だった。
「この家に何か用かい、お嬢ちゃん」
背後から声がした。
振り返ると、大柄な男が立っていた。長めの髪、無精髭、コート越しにも分かる鍛え上げられた肉体。一目で普通の人ではないと知れた。
「いえ、私は別に……」
「そうか」
男は笑った。
「よかった。実は俺もここに用があったんだがな」
そう言うと男はインターホンを押し、カメラの死角へ移動した。
桃花が状況を飲み込めずにいると、数秒後、ガチャリと鍵の開く音がした。
「結果オーライだな」
男は満足そうに笑う。
「え?」
次の瞬間、手首を掴まれていた。引かれる力は驚くほど強く、抵抗する間もなかった。
「よし行くぞ」
「いやいやいや!」
そのまま家の中へ連れ込まれる。
玄関を開けた雅也は心底嫌そうな顔をしていた。
「……なにこれ」
紫も同じ顔をしている。趙慶だけが満面の笑みだった。
桃花は混乱したまま、ふと思った。
この人たち、初対面じゃないんだ。
「桃花はええとして」
雅也が煙草に火をつけ面倒臭そうに煙を吐く。
「なんでお前がおんねん」
「この前は振られてしまったからな」
趙慶は嬉しそうに笑う。
「今日は相手してもらおうと思ってな。どうかな?」
「礼儀がなってないのう。ドレスコード読んでから出直してこいや」
「極道の家にドレスコードなんてあるのか?」
「ないけどな、お前みたいアホの相手してたら身が持たんのや」
「しかし、極道の奥川さんが喧嘩売られて帰ってくださいじゃ面子が立たないでしょう」
「『元』な」
雅也が訂正する。
「今どきそんな古臭い極道おらんわ。稼ぎにならん喧嘩はせんわい」
「意外だな」
「何がや」
「あんたもっと刹那的な人間だと思っていたけどな。どちらかと言えば金にならん純粋な喧嘩の方が好きだと思っていた」
「せやったら見込み違いや。俺はこう見えてインテリや」
「それは、それは人は見た目に寄らないな」
「喧嘩売っとんのか」
雅也はため息をつく。
「そうは言うても客は客や。茶ぐらい出すわい。上がれや」
「やっぱりあんた顔に似合わず優しいな」
「顔に合わずは余計や。桃花もせっかく来たんやから、まぁ茶でも飲んでけや」
「ほらほら、桃花上がりなよ 」
紫は桃花の手を引く。空気が少し和らぐ。
居間で再び4人が対峙する。
紫が桃花の隣へ座った。
「久しぶりだね」
「……うん」
「連絡ぐらいしなよ」
「ごめん。なんかなんとなく連絡取りづらくて……」
「なんでさ、前の事だったら別に気にしなくていいじゃん。あんなの私なんて日常茶飯事だよ」
「お前は少しは気にせえや。うちは妖怪ポストちゃうねんぞ。厄介事ばっかり持ち込みよって」
「最近はそうでもないでしょ。印象で言わないでよ」
桃花は少し笑った。それだけで肩の力が抜ける。
ああ。帰ってきたんだな。そんな気がした。
「ほら、座んなよ」
「うん」
「先生もなんだかんだ喜んでるし」
「喜んでへんわ。居候増えたら飯代かかるやろ」
「そんな心配してたの?」
「切実やぞ。俺が何人も養えるような金持ちに見えるか?」
雅也が淹れた茶が出てきた頃には、桃花も少しずつ会話に加われるようになっていた。
「桃花も甘いものが好きなのか?今の季節だとチョコレートとか」
趙が聞く。
「えっと……そうですね。今だとぜんざいなんかも」
「ほう、ぜんざいいいなぁ」
紫が湯呑みを傾けながら、
「桃花はこう見えて結構、食べれるんだよ。私よりも食べるくらい」
「紫、いらない事言わなくていいから」
「いやぁ、あれは私もさすがに引いたもん」
そんな何でもないやり取りが続いた。桃花は自分の声が自然に出ている事に、途中で気づいた。
趙が湯呑みを置いた。
「旦那」
笑う。
「そろそろ枕は終わりにして本番といきませんか」
空気が変わった。桃花にも分かる。部屋の温度が下がったような感覚だった。
「せっかちやのう。やっぱあかんか」
雅也がため息をつく。
「せっかくここまで来たんだ」
趙の笑みが深くなる。
「美味そうなご馳走が目の前にあるのに喰わんわけにはいかんでしょう」
「人を焼肉みたいに言うなや。ほんま、厄介やのう」
雅也が立ち上がり、庭を指差した。
「表出ろや」
趙も上着を脱ぎ、道着姿になる。現れる胸筋と腕はまさに鍛え抜かれたそれであり、脱いだだけで威圧感を放っていた。
その瞬間、桃花は初めて気づいた。
この男、笑っているのに怖い。獣が笑っているみたいだった。
二人が庭へ向かう。桃花は不安そうに見送った。
「奥川さん、大丈夫かな。あの相手、あきらかになんかやってる人でしょ」
紫は少し考えた。
「大丈夫じゃない?」
即答。
何を根拠に言っているのだろう。がたいが違い過ぎるし、奥川さんも一般で見ればがっしりした体つきだがそれでも相手の男と比べると小さく見える。
「師匠も強い方だけど先生は勝算のない勝負はしないと思うから」
「奥川さんってそんなに強いの?」
紫は腕を組んで、少し悩んだ。
「うーん強いっていうか生き残る術を知ってるかな」
その言葉に、桃花は背筋が少しだけ寒くなった。私は知らないだけでこの奥川雅也という男はどんな修羅場を潜ってきたのだろうか。
庭の向こうから、冬の風が吹いていた。




