虎は絵に帰る 後篇
「さっさと起きろや、クソが」
雅也は床に転がる神代の肩を蹴った。
「紫が二階におる。追うぞ」
「痛った……」
神代は噛まれた腕を押さえながら顔をしかめる。
「ちょっとひどくないですか?俺、さっきまで食われかけてたんですけど」
「お前がそれくらいでくたばるタマか。どうせそのスーツも防刃やろうが」
雅也は銃の状態を確認し、廊下へ出る。
「それより紫になんかあったらお前を虎の餌にするからな」
「理不尽だなぁ……」
神代はふらつきながら立ち上がった。
その時だった。
二階から何かが割れる音が響く。
続いて聞こえる紫の声。
雅也の顔色が変わった。
「チッ」
二人は階段を駆け上がる。
――そのちょっと前。
二階では紫が自室から出て来ていた。
昼寝をしていたところを銃声で目が覚めたのだ。
「何、今の……」
廊下へ出た瞬間。
背筋がぞわりと粟立つ。
嫌な気配。
自分に対する危害を加えようとするモノが近づいてくる予感。
良くないものが近づいてくるあの感覚を紫はひしひしと感じていた。
そう思考した刹那。階段の奥。
暗闇から虎が現れた。
黄金色の瞳が真っ直ぐ紫を捉える。
獲物を見つけた肉食獣の目だ。無機質のようで敵意のある眼光が紫に向けられる。
「え……虎!? なんで?」
虎が吠える。
次の瞬間。
飛びかかってきた。
「なんで私!?」
紫は咄嗟に踏み込む。
右足を振り抜く。
とてつもない衝撃音。
しかし。
予想以上に重い。
まるで土嚢を蹴ったような感触だった。
「重っ!?」
虎は吹き飛んだ。
だが紫も反動で壁に叩きつけられる。
廊下の壁に亀裂が走る。
虎は階段の上にある窓へ激突。
ガラスを突き破り庭へ転落した。
その直後。
雅也と神代が階下の居間へ飛び込んでくる。
庭に転がる虎。
割れた窓ガラスの破片が降り注ぎ煌いている。
ダメージを負いつつもすぐさま立ち上がり構える紫。
神代がぽつりと言った。
「上でゴリラでも飼ってるんですか?」
紫の蹴りを見ての発言だった。
雅也は真顔だった。
「いや……これは……ゴリラも真っ青やのう」
「聞こえてるよ!」
紫が怒鳴る。
「誰がゴリラだ!」
「家壊すなや!」
「しょうがないでしょ!相手は虎なんだよ!」
「修繕費かてバカならへん。加減せえや」
そんなやり取りの最中。
虎がゆっくりと起き上がった。
唸るように喉を鳴らし、威嚇する。
先程の蹴りなど効いていない。そう言いたげなふてぶてしい態度。
いや、効いている。
だが。
傷が墨のように流れ始めていた。
黒い液体が身体を這う。
そして傷を埋める。
「再生しよるぞ」
雅也が呟く。
虎が再び飛びかかる為に低く構える。
今度は雅也が銃を構えた。
「下がっとけ。まともな生物やない」
虚空聖鉄――虚空菩薩の加護を込めた鉄だ。
理屈は知らんが、怪異には効く。
轟音。
一発目。
肩が吹き飛ぶ。
しかし傷口から墨が溢れ出し修復を始める。
二発目。
胸。
墨が遅れて広がる。
三発目。
腹。
修復が一瞬止まる。
四発目。
脚。
崩れた毛皮がそのまま戻らない。
五発目。
頭。
弾丸が虎を貫いた。
ついに虎の身体が崩れ始めた。
毛皮が墨になる。
牙が墨になる。
骨が墨になる。
やがて全身が黒い絵具のように溶けていく。
その墨は風に乗らない。
生き物のように地面を這い。
家の中へ戻っていく。
「おい……」
神代が呟く。
墨は書斎へ向かっていた。
二人は顔を見合わせる。
嫌な予感しかしない。
書斎へ戻る。
掛け軸は元の場所に掛かっていた。
そして。
虎も戻っていた。
ただし。
状態は最悪だった。
仰向け。
白目。
全身血塗れ。
胸と腹には綺麗に五つの銃創。
背景には墨が飛び散り。
若冲風の筆致で血だまりまで描き足されている。
まるで江戸時代の絵師が全力で虎の射殺体を描いたような絵だった。
沈黙。
「……」
神代は頭を抱えた。
「会長にどう説明しましょう」
「知らん」
雅也は煙草に火をつけた。
「本物やったら価値は上がるんちゃうか」
「若冲がこんなん描くわけないでしょう」
後日。
神代は掛け軸を興味本位で鑑定師へ持ち込んだ。
結果が出るまで数日かかった。
筆致。
顔料。
落款。
署名。
全て本物。
そのはずだった。
だが。
「若冲が蜂の巣になった虎を描くわけがない」
という、ただそれだけの理由で。
鑑定結果は。
『精巧な贋作』
となった。
神代は別の贋作とすり替え。
会長にはこう報告した。
「本物でした」と
雅也は無言で天井を見上げた。
そして深く煙を吐く。
「嘘ばっかりやな……」
そう呟いたのが、
それは贋作に対してなのか、
神代に対してなのか、
それとも世の中そのものに対してなのかは、
本人にも分からなかった。




