虎は絵に帰る 前篇
「いやぁ、うちの会長の趣味にも困ったもんですよ」
まるで他人事のように笑いながら神代が言った。
雅也は煙草を咥えたまま顔をしかめる。
「おっさん、まだ懲りもせず骨董集めとるんかい」
「そうなんですよ」
神代は肩を竦めた。
「出入りの美術商から出自の分からない物を片っ端から買い漁ってましてね」
「ええカモやのう。俺もその辺の茶碗でも売りに行ったろうかい」
「それは無理じゃないですか?先代はあなたの事、煙たがってますし、まぁカモなんは確かです」
苦笑いする神代。
「その骨董商シメたら終わりちゃうんか」
「何回かやりました」
「やったんかい」
「仮にも極道ですからね。舐められない為にも躾は大事でしょ。でも無駄です」
神代はため息を吐く。
「会長自身がお熱なんですよ。新しい骨董屋を見つけては呼ぶ。追い出しても次が来る。キリがない」
「元組長が聞いて呆れるのう」
「まぁそう言わんでください。なんだかんだで会長ですから」
「お前にしては殊勝なこと言うやないか」
雅也が鼻で笑う。
神代は机の横に置いていた細長い木箱を持ち上げた。
「で、問題の品がこれです」
「掛け軸か」
雅也は目を細めた。
「誰のや」
神代は妙に得意げな顔になる。
「伊藤若冲」
沈黙。
雅也は煙草を灰皿に押し付けた。
「よっしゃ解散や。お疲れさんや」
立ち上がる。
「いやいやいやいや!ちょっと待ってくださいよ」
神代がへらへらと笑いながら腕を掴んだ。
「言いたいことは分かりますよ」
「当たり前やろ。お前、『なんでも鑑定団』見てこいや」
雅也は呆れた顔をした。
「若冲の真筆がなんでヤクザの事務所に流れてくんねん」
「絶対はないでしょ。もしかしたら、掘り出し物かもしれないじゃないですか」
「そういうのがカモなんや。ほんまに掘り出し物を売ってたら骨董商なんて商売成立せんやろ」
「なんか、妙に詳しいですね。もしかして昔、シノギでやってました?」
「やかましいわ。一般常識や。その骨董商さっさっと出禁にせえ」
「それもそうです、それで終わりだったらわざわざこんなとこまで来ないでしょ」
「お前はいちいち、一言多いねん。で、その掛け軸がなんやねん」
「問題は別にあるんですよ」
神代の声音が少しだけ真面目になる。
雅也は嫌な予感しかしなかった。
「なんや」
「開けると死ぬ掛け軸です」
雅也はしばらく神代の顔を見た。
嘘をついている顔ではない。
「……それを俺んとこに持ってきたんか」
「他に頼める人間がいませんので」
「厄介事の持ち込みは間に合っとるねん」
「まぁ、うちに持ってくるってことはそういう類やろうとは思ったが」
雅也は頭を掻く。
「マジなんか」
「ですから会長の手元に置いておけなくて」
神代は木箱を指で叩く。
「持ってきた骨董商にはもちろん灸を据えたんですが肝心のコイツが……」
「で、俺にどうせえ言うんや」
「とりあえず立ち会ってもらおうかと」
「こんなもんさっさっと燃やしてまえや」
「会長は本物の若冲だと信じてるんですよ。面倒な事に。おいそれと捨てるわけにもいかなくて」
「めでたい頭しとるのう、先代は」
雅也は渋々木箱へ手を伸ばした。
箱に刻まれた古い傷。
色褪せた紐。
そして蓋の隅に貼られた護符。
護符は黒ずみ、文字はほとんど消えかかっていた。
雅也の指が止まる。
しばらく黙って護符を見ていた。
「封印は本物やな」
低く、独り言のように言った。
「やっぱり?」
「おそらくやが、碌なもんやない」
雅也は目を細めたまま動かない。
神代は口を挟まなかった。
数秒の沈黙の後、雅也はゆっくりと封を解いた。
蓋が開く。
中には一本の掛け軸。
慎重に取り出し、ゆっくりと広げていく。
現れたのは虎だった。
巨大な虎。
写実的というよりはどこか戯画めいた筆致。それでいて妙に生々しい。今にも動き出しそうな迫力がある。
「どうです?」
神代が聞く。
「本物ですか?」
「分かるかい。中島誠之助のとこに行けや」
雅也は即答した。
「精巧な贋作なんぞ山ほどある。これもその類ちゃうか。パッと見、よう書けとるが」
煙草に火をつける。
その時だった。
虎の目が動いた。
気がした。
「……ん?」
雅也は眉をひそめる。
掛け軸の中の虎。黄色い瞳。それがこちらを見返した気がした。
部屋の温度が下がる。
嫌な気配。
神代も何かを感じたのか笑みを消していた。
静寂。
虎が笑った。
そう見えた。
次の瞬間、掛け軸が大きく波打った。
獣の臭いが室内に満ちる。
紙の中から前脚が飛び出す。爪が畳を抉る。続いて頭、牙、黄金色の双眸。巨大な身体が轟音と共に現実へ飛び出した。部屋の空気が熱を帯びた。
「っ!」
神代が反応するより早かった。
虎は神代へ飛びかかる。
咄嗟に腕で首を庇う。
牙が食い込んだ。
「ぐっ!」
神代が顔を歪める。
雅也は既に銃を抜いていた。
轟音。
弾丸が虎へ命中する。
だが虎は怯まない。黄金色の瞳だけがぎらりと光り、次の瞬間には障子を突き破っていた。
木片が飛び散る。廊下へ。そのまま家の奥へ消えていく。
静寂が戻った。
残ったのは破壊された書斎と、畳に散った血だけだった。
神代が血の滲む腕を押さえながら立ち上がる。顔色は悪いが、表情は飄々としていた。
「痛っう。思った以上に厄介そうですね」
雅也は深くため息を吐き、煙草の煙を吐き出した。
「くそ」
頭を掻く。
「やっぱり面倒なことになったのう」




