止まり木の夜
目を覚ました時、雅也は人生でも五本の指に入るくらいの頭痛に襲われていた。
「……痛っ」
思わず眉間を押さえる。視界の端には空になったウイスキーの瓶。畳の上には無造作に置かれたグラス。見覚えしかない惨状だった。
「起きた?」
紫がペットボトルの水を差し出していた。雅也は無言で受け取り、一気に半分ほど飲み干す。少しだけ生き返る。
「お前のおかんはウワバミかなんかか。俺も強い方やがこんなへべれけなったんは久々や」
「私も母さんが酔いつぶれてるの初めて見た」
「仮に水商売やっとってそれやったら化け物やぞ。鉄の肝臓やな」
「かもね」
紫は肩をすくめた。
少し沈黙。
「結局、母さん何しに来たの?」
「自分の娘が長いこと外泊しとったら様子見に来るやろ」
「へぇ」
紫は少し考えるような顔をした。それから窓の外へ目を向ける。
「あの人、私にそんな興味ないと思ってた」
雅也は答えなかった。煙草を一本取り出して、火をつける。紫煙がゆっくりと天井へ昇る。
「親が全員そうやとは言わんけど少なくともお前のおかんは娘をお前を心配して元極道の家に突撃してくる程度には気にしてるんやろ」
煙を吐く。
「しかもわざわざ用心棒まで連れて来とるんや」
それだけ言って、灰を落とした。
「それより俺はどうでもええからおかん見たれや」
紫は少し黙った。それから立ち上がる。
「まぁいいや」
隣の部屋へ向かう背中を見送って、雅也は煙草を口にくわえたまま視線を横へ向けた。
「で、おたくはどちらさんや」
柱にもたれかかっていた大男がにやりと笑った。
客間。布団の上に寝かされた琴乃がゆっくりと目を開ける。
「……最悪」
頭を押さえた。
「大丈夫?」
紫が横に座っている。
「大丈夫じゃないわ」
琴乃はため息をついた。「久々に飲みすぎた」
「何しに来たのさ」
「あんたねぇ、自分の娘が怪しい男と付き合ってたら気になるのは当たり前でしょ」
「私に男が出来るのが嫌?」
「いや、そこまで潔癖に言うつもりもないけどさすがに年頃の娘が知らない男の家に住み着いてるのは、さすがに」
「今まで外泊しても何も言わなかったくせに」
「それ言われると立つ瀬がないわね」
苦笑する。少しの間があった。
「……最近、少し時間が出来たの」
琴乃は天井を見上げた。「仕事とか色々、落ち着いてきて」
「ふーん」
「あなたの事、ちゃんと見てなかったわね」
紫は何も言わなかった。
「今さらだけど」
琴乃は続ける。「それでも、気になるものは気になるのよ」
紫はしばらく黙っていた。それから短く言った。
「……もうちょっとちゃんと話した方がよかった?」
「そうね」
琴乃は小さく笑った。「そう、もう少し、話し合うべきね」
紫は視線を逸らした。表情は変わらない。だが耳が少し赤かった。
帰り支度を終えた頃、家の前にはタクシーが停まっていた。
琴乃が乗り込む前に、雅也が見送りに出た。
「今日は泊まっていくそうですわ」
「まぁ今日はいいです」
琴乃は苦笑した。「あなたも思っていたより悪い人じゃなかったし」
「そらどうも」
雅也は頭を掻いた。少しの間があった。
「俺は所詮、止まり木みたいなもんです」
琴乃が目を細める。
「あの子はそのうち、ここから出ていく」
煙草に火をつける。「いつまでもおる子やない。せやけど、それまでは俺がなんとかしますわ」
琴乃はしばらく黙っていた。
「そう思ってるの、あなただけでしょうけど」
「かもしれませんな」
「でも」
少しだけ声が柔らかくなった。「ありがとうございます」
雅也は何も答えなかった。タクシーが走り出す。
タクシーの窓越しに家が遠ざかっていく。
ふと視線を向けると、縁側に二人の影があった。
紫が何か言っている。雅也が煙草を吸いながら、面倒そうに返事をしている。
声は聞こえない。
琴乃はそれをしばらく見ていた。それから前を向いて、小さく息を吐いた。
「まったく」
呆れたような、それでいて少し違う声だった。
タクシーは夜の街へ消えていった。




