死なずの悪鬼と、帰らない娘 その3
居間へ通される。
雅也は台所からコーヒーを持ってくると、琴乃の前へ置いた。
「すんません。本来ならもっと早う挨拶に伺うのが筋やったんですが」
「いえ」
琴乃は微笑む。「こちらこそです。紫がお世話になっているのに、ご挨拶もせず」
当たり障りのない会話。だが、お互いに相手を値踏みしていた。
琴乃はカップを手に取りながら男を観察する。四十前後。見た目だけなら堅気には見えない。鋭い目つき、隙のない所作。だが不思議な事に、組織の人間特有の臭いがしない。群れる気のない人間の、静かな圧だった。
そして家が、妙に綺麗だった。男の一人暮らしにしては整い過ぎている。誰かを迎える事に慣れている家。紫だけではない、様々な人間が出入りしているのだろう。
「思ったよりまともそうな人で安心しました」
琴乃が言う。
「恐れ入ります。元極道相手に言うにはもったいないお言葉ですわ」
「随分、下手ですね。何かやましい事でも?」
「別にそういうわけではありまへんわ。まぁ元とはいえ、こういうとこに出入りさせてもうてる事は負い目と言えば負い目ですわ」
「現役ならもっと警戒してます。足を洗ったんならいいんじゃないてすか」
「そらどうも」
少しだけ笑う。だが目は笑っていない。
沈黙。先に口を開いたのは琴乃だった。
「紫、迷惑かけてませんか?」
「まぁ迷惑ってほどではないですわ」
「あら、そう」
「どこか、俺もあいつの存在に救われているそんな気がせんでもない。そんな感じですわ」
「随分と曖昧ですね。もうちょっとちゃんと言語化できなきゃですね。作家先生」
「精進しますわ」
二人とも思わず笑った。少し、空気が緩む。
雅也は煙草に火をつけた。
「けどまぁ」
煙を吐く。「ええ子ですわ」
琴乃の眉が少し動いた。
「危なっかしいし、余計なもん首突っ込むし、人の話聞かへんし」
「本当にそう」
「せやけど肝は据わっとる。普通の人間なら逃げる場面でも、あの子は逃げへん」
「それは昔からです」
「親譲りでっか」
「違います……でもそうかも」
どことなく歯切れが悪い。今度は雅也が笑う。
「……ひとつ聞いてええですか」
「何でしょう」
「なんで今日、来はったんです?」
琴乃はカップを置いた。少しの間があった。
「娘が何ヶ月も帰ってこない。それだけです」
「それだけで、元ヤクザの家に単身で?」
「ボディーガードを外に待機させてますけど」
「……そら抜け目のない」
思わず、という顔で雅也が笑った。琴乃も笑った。今度は目も笑っていた。
それから会話は自然に続いた。
紫が小学生の頃、担任の先生を殴ってで泣かせた話。中学で友人の財布を盗んだ三年生を一人で追い詰めた話。道場の稽古、道場の先生を不意打ちで気絶させた話。
雅也は煙草を灰皿に押しつけながら言った。
「……あいつらしいわ」
「あの子は猫被ったり、取り繕ったりは下手糞だから、それだけここが居心地がいいんでしょうね」
雅也は少し黙った。
「……どうでしょうな。ここにおるのはただの極道崩れの腐れですわ」
「まぁもうちょっと胸を張ってもいいと思いますよ」
琴乃は窓の外へ目を向けた。
「似てるかも……」
誰にでもなく静かにふと呟く。
沈黙。
雅也は何も言わなかった。言えなかった、という方が近かった。
琴乃はバッグから細長い箱を取り出した。テーブルへ置く。
「せっかくですし。手ぶらていうのもなんでしたし」
箱を開く。アランのレムナント・レネゲード。
「……ええセンスですな」
「飲みます?」
雅也は少し考えた。この女は最初からこれを持ってくるつもりだったのだろう。調べに来たのか、飲みに来たのか。
「まぁ悪うないですな」
◆
二時間後。
グラスが空になるたびに、二人の声は少しずつ大きくなっていた。
「……紫に手ぇ出してないでしょうね」
「あんなションベン臭いのに手ぇ出すかいな。灰羽組、元若頭補佐の奥川さんを見くびってもらっては困るわ」
「どうだか。男は下半身に脳が付いてるんでしょ。そんなの信用できるわけないでしょ」
「えらい偏見や。現にあいつが全裸で歩いていたとしてもピクリともせんわ」
「あんなかわいい子の全裸見てなんも思わないって、あなたそれでも男?」
「あんたが言うて来たんやろ
」
完全に出来上がっていた。
◆
その頃、紫は雅也の家へ向かっていた。
玄関前で仁王立ちしている大男を見つけて、足が止まる。
「あれ?」
「おお、紫じゃないか! 久しぶりだな!」
「趙さん? 何してるの?」
「待機だ」
「何の?」
「よく分からん。護衛してくれと言われたから来たのだがもうかれこれ2時間待ちぼうけだ」
「……2時間前から?」
「そうだ。ひどくないか。普通、連絡よこすだろう。こう言ってはあれだが琴乃さんもちょっとずれたとこあるからなぁ」
「趙さんにそれ言われたらおしまいだよ。お母さんに頼まれたの?」
「ひどい言われようだな」
紫は深いため息をついた。嫌な予感が確信に変わっていた。
「とりあえず入ろう」
「勝手に入って大丈夫か」
「いいよ、いいよ、趙さんにそんな融通、どうせ期待してないだろうし」
引き戸を開け、居間へ向かう。
襖を開いた瞬間、紫は固まった。
畳の上に雅也が寝ている。琴乃も寝ている。完全に酔いつぶれていた。テーブルには空のボトルと空のグラス。ただグラスだけが、綺麗に端へ寄っていた。
紫はしばらくその光景を眺めた。
「……何やってんの、この人たち」
すると酔いつぶれた琴乃が、寝返りを打つ。
「紫ぁ……ちゃんと……帰ってきなさいよ……」
寝言だった。
紫は一瞬だけ黙り込む。それから視線を逸らした。
「……私の前ではちゃんとするんじゃなかったの」
誰にも聞こえない声だった。




