死なずの悪鬼と、帰らない娘 その2
「死なずの悪鬼、ねぇ……」
琴乃は少しの間、その言葉を口の中で転がした。それから鼻で笑い、ガラムを一本抜き取った。
ライターの火が、暗いVIPルームを一瞬だけ照らす。甘ったるい煙がゆっくりと天井へ昇っていく。
「男ってほんと、そういうの好きよね。~の龍とか、~の暴虎とか」
「まぁ、否定はしませんがね」
向かいでオクトモアのロックを揺らしながら、努が肩を竦める。氷が静かに鳴った。
「ただ、この奥川雅也って男、噂だけはやたら派手ですよ」
「どうせ与太話でしょ」
「まぁ、その可能性は高いですけど」
努は資料をぱらぱらとめくる。
「分かってるだけでも二回は殺されてる、とか」
「は?」
「腹を撃たれて川に沈められたとか、山に埋められたとか。それでも翌日には普通に煙草吸ってた、とか」
「……くだらない」
琴乃は煙を吐き捨てた。
「その手の伝説?的な話、反吐が出るのよね」
「ヤクザ界隈なんてそんなもんですよ」
努は軽く笑う。
「ただまぁ、この男、ちょっと面白いんですよ」
「面白い?」
「普通の武闘派崩れと違って、妙にインテリ臭い」
「インテリヤクザってやつ?」
「現役時代の主なシノギは不動産系であと、カラオケ店とかも経営してたらしいです」
「ヤクザにしてはいやにまともね」
「けど元々は相当イケイケだったとか。喧嘩も滅法強かったらしいですよ」
「だからそういう話に興味ないって言ってるでしょ」
「現在は主に文筆業ですね。怪談とか極道のコラムとか」
「食えてるの?」
「微妙ですね。売れてるとは言えないです」
「じゃあ他に何してるのよ」
その瞬間、努の口元がにやりと歪んだ。
「……聞きます?」
「その顔やめて」
「普通じゃない副業、らしいですよ」
「は?」
「まぁ、また、琴乃さんの嫌いな、所謂拝み屋というか……霊能力者というか」
数秒の沈黙。
琴乃は煙草を口に運びかけて、止めた。
「……もう一回言って」
「霊能力者、です」
今度は笑わなかった。笑えばよかったのに、と自分でも思った。なのに口から出たのは別の言葉だった。
「……紫が、そんな男の家に?」
努は静かに頷く。
琴乃は深くソファに身体を預けた。
「はぁ……」
心底呆れたため息のつもりだった。だが煙草を持つ手が、わずかに止まっていた。
「あなたはそう言うと思いましたよ」
「大した探偵さんね」
「いや、でも妙な噂は多いんですよ。"あの男の家に入った強盗が泣いて逃げてた"とか、"怪異を拳銃で撃ち殺した"とか」
「もういいわ、その辺」
琴乃はこめかみを押さえた。
「聞いてるだけで頭悪くなりそう」
「すいませんねぇ」
努は笑いながらウイスキーを飲み干す。グラスを置いてから、少しだけ声のトーンを変えた。
「……ひとつ聞いていいですか」
「何」
「娘さんが心配なんですか。それとも、その男が気に入らないんですか」
琴乃は答えなかった。
煙草の火が赤く揺れる。
「……どっちもよ」
それだけ言って、紫煙の向こうで細く目を伏せた。
「昔からちょっと変わっててあの子」
「男を見る目ないんです?」
「うーん。どうかしら、彼氏がいるなんて話も聞かないし」
「けど昔から妙なものにばっかり興味持つの。面倒ごととか、普通じゃないものとか」
そこで琴乃は小さく笑った。自嘲というより、どこかくすぐったそうな笑い方だった。
「誰に似たんだか」
努は何も言わなかった。ただグラスを傾けて、その横顔を見ていた。なんとなく聞くのは野暮だと思ったから、聞かなかった。
「……住所、あとでLINEしといて」
「何するつもりです?」
琴乃は静かに立ち上がった。ラウンジの照明が、派手なドレス姿を妖しく照らす。
「会ってみる」
「……本当に行くんですか」
いつもの軽口ではなかった。努にしては珍しく、確かめるような声だった。
「霊能力者だか何だか知らないけど」
琴乃はバッグを肩にかけた。
「うちの娘が何ヶ月も入り浸ってる男よ。顔くらい見とかないと」
それだけ言って、扉へ向かう。
努はグラスを手の中で回しながら、その背中を見送った。
煙草の残り香だけが、部屋に漂っていた。
ラウンジ裏の喫煙所でガラムに火をつけた。
甘ったるい煙が肺に落ちる。
紫は昔から家に寄りつかない子だった。友達の家、ゲームセンター、河川敷。気づけばどこかにいる。それでも完全に帰ってこなくなった事はなかった。家を「帰る場所」として扱っていない今の状態とは、何かが違った。
煙を吐きながらスマホを取り出す。
数回コール。
途端に耳をつんざく大声。
『いやぁ! 久しぶりだな琴乃さん! 旦那の葬儀以来か!? 息災かい!』
思わずスマホを耳から離した。
「声がでかいのよ……」
琴乃は眉を寄せる。
「あなたこそ変わらないわね、趙さん」
豪快な笑い声。
趙慶。紫が幼い頃に通っていた武術道場の師範で、年中身体を鍛えている。腕力だけなら琴乃の知る人間の中でも最強格だろう。ただし、今の電話だけで今日の気分が三割は削られた気がした。
知り合いの中で気軽にボディガードを頼めるのが、この男くらいしかいなかった。
『で? どうしたんだ』
「娘がね」
琴乃は煙を吐いた。
「男の家に入り浸ってるの。だから調べに行く。付いてきて」
少しの沈黙。それから趙が感慨深そうに笑った。
『へぇ……あのお転婆がなぁ。時の流れを感じるな!』
「やめて」
『相手はどんな男だ?』
「元ヤクザ」
『おお、面白そうだな!それは用心棒がいるな』
「全然面白くないわよ」
即答だった。
『必要なら半殺しで止めるぞ』
「だから、そういう所よ。相変わらず脳筋なところは変わらないわね」
この男を連れて行きたくない理由が、一言に凝縮されていた。
『で、俺はどう動けばいい?』
「家の前で待機」
『一緒に行かないのか?』
「あんたみたいな筋骨隆々の男連れて行って、"ようこそ"ってなると思う?」
『ならんな!』
「だから外で待機よ、あなたは」
『まぁ分かった。待ってればいいんだな』
「そう。何かあったら連絡する」
『オーライ!』
電話を切った。
ガラムの残りを深く吸って、吸殻を携帯灰皿に押し込む。
嫌な予感はする。
だが、行かない理由にはならなかった。
◆
チャイムが鳴る。
その瞬間、雅也は露骨に嫌そうな顔をした。
うちのチャイムが鳴る時は大抵ロクな事がない。
煙草を灰皿に押し付け、ゆっくり立ち上がる。
引き戸を開けた。
立っていたのは、ひとりの女だった。
黒髪。派手すぎない化粧。高そうな服。
香水の匂いが、夜の商売の匂いと重なった。
一瞬で分かった。
女は静かに口を開いた。
「私は藤乃琴乃」
一拍。
「紫の母です」
雅也は無言で天を仰いだ。
――ほらな。
やっぱり、ろくなことにならへん。




