死なずの悪鬼と、帰らない娘 その1
朝。
薄いカーテン越しの日差しが、散らかったリビングをぼんやり照らしていた。
机の上には吸殻の詰まった灰皿。昨夜飲みかけた缶チューハイ。脱ぎ散らかされたハイヒール。夜の残骸が、昼の光の中でひどく白々しく見えた。
藤乃琴乃は、ソファに座ったまま煙草に火をつけた。ガラム特有の甘ったるい香りが部屋に広がる。一口吸って、ゆっくり吐き出す。それだけが今の自分にできる、唯一まともな呼吸だった。
煙が天井へ向かって消えていく。
そのとき、玄関の鍵が回る音がした。
「あ」
扉の向こうに、パーカーにジーパン女子高生としては少々ラフな格好の紫が立っていた。
一瞬だけ目が合う。紫は特に驚いた様子もなく、ただ「いた」という事実を確認するような目で母親を見た。それからゆっくりと靴を脱ぎ始める。乱暴でも丁寧でもない、どこまでも平坦な所作だった。
「……あんた、最近帰ってないみたいやけど」
「珍しいね。母さんが私を気にするなんて」
紫は答えながら髪をかき上げた。
「子供が家に帰ってこんかったら、親は気にするもんでしょ」
「……ズレてるんだよなぁ、いつも」
冷蔵庫を開ける音。紫は麦茶のボトルを取り出して、コップも使わずに直接口をつけた。喉を鳴らして飲む。その横顔は、どこか男の子みたいだと琴乃はぼんやり思った。
「……でかくなったな」
気づけば声に出ていた。
紫はボトルを冷蔵庫に戻しながら、振り返りもせず言った。
「急に何」
「いや、なんとなく」
それは批判でも皮肉でもなかった。ただの観察だった。紫はいつもそうだ。人の言葉を感情で受け取らずに、標本でも眺めるみたいに距離を置く。
琴乃は煙草を灰皿に押しつけながら、なんとなく続きを探した。
「学校は?」
「行ってない」
「友達は」
「……いるよ」
「……彼氏は」
少しの間があった。
紫はソファに歩いてきて、琴乃から二つ分ほど席を空けて腰を下ろした。スカートの裾を直す仕草だけが、やっと年頃の女の子らしかった。
「いないよ。なにさ、さっきから」
「そう」
「母さんこそ、最近どうなの」
今度は琴乃が一瞬止まる番だった。
「仕事は順調よ。店の経営も安定してる」
「そっか」
紫は天井を見上げた。特に何かを考えている様子でもない。
琴乃は新しい煙草に火をつけた。この間の沈黙が、嫌いではなかった。娘と二人でいる時間は、いつもこういう沈黙がある。埋めようとすると余計に遠くなって、黙っているとかろうじて同じ部屋にいられる。
「一本頂戴」
不意に紫が言った。
「あんた未成年でしょ」
「別にいいじゃん」
平然としていた。責めているのではなく、ただ事実として言っている。それがかえって堪えた。
「……ダメ。体に良くない。特にこのタバコは」
うまく言葉が続かなかった。紫は少し首を傾けて、母親の顔を横目で見た。
「……そんなのを母さんは吸うの?」
「まぁそれは……」
それきり紫は立ち上がり、自分をどこか寂しげに見つめる。
「仕事帰りで疲れてるんだし、寝なよ」
ぶっきらぼうにそれだけ言うと、再び玄関へ向かう。
「帰ってきたばかりなのに……どこ行くの」
「んー、友達んとこ」
「男?」
少しだけ探るような声になっていた。自分でも分かった。
紫は振り返らない。「どうだろうね」
扉が閉まる。
静寂。
琴乃はしばらく扉を見ていた。煙草の煙だけが、答えのように部屋に漂っていた。
紫は昔から掴みどころのない子だった。男に興味があるのかないのかも分からない。子供の頃からどこか達観していて、感情の輪郭がいつも霞んで見えた。泣いたり、甘えたり、駄々をこねたりした記憶が、琴乃にはほとんどない。それが娘の性格なのか、それとも自分が見ていなかっただけなのか、今となっては判別できなかった。
だがここ数ヶ月は、明らかに様子がおかしい。
「……面倒やけど、あの男に頼むか」
北新地。深夜。
雨上がりのアスファルトに、ネオンが滲んでいる。
ラウンジ『クラブ・ルクレール』。店内は甘い香水とアルコールの匂いで満ちていた。
自宅とは別人のように着飾った琴乃は、VIPルームの扉を開ける。
「失礼しま――」
「お、来た来た」
ソファには、不精髭を生やした男がだらしなく沈んでいた。くたびれたジャケット。だがグラスに入った酒だけは一級品だった。オクトモア。癖の強いアイラモルトを、ロックでやっている。
崎山努。元新聞記者。今は調査屋まがいの仕事で日銭を稼いでいる。口は軽く、女好きで、目端だけは妙に利く。
「あんたから声かけてくれるなんて嬉しいねぇ」
男はにやついた。
「ここ来る時くらい、もうちょっとシャンとして来てよね」
琴乃は嫌そうに眉を寄せる。「恥ずかしい」
「へいへい」
努は適当に返事をすると、氷を鳴らした。「で、依頼? 客の素性調査? それとも嬢の身辺?」
「どっちでもない」
琴乃はソファに腰を下ろした。「娘の事よ」
努が一瞬だけ目を丸くする。「娘? あんた娘いたのか」
「白々しい」
琴乃は冷めた目を向けた。「知ってるでしょ」
「あぁ、あの変わった子か」
「その紫が最近、全然家に寄りつかないの」
努は黙ってロックを飲み干した。
「外泊してる相手がいるらしいのよ」
「ほう」
「どこの誰で、どんな人間か調べてほしい」
努はウイスキーをグラスに注ぎながら笑った。
「あんたが娘気にするなんて意外だな。てっきり放任主義かと思ってた」
「……一応、気になるでしょ」
琴乃は視線を逸らす。
「娘なんだから」
努は少しだけ意外そうな顔をした。すぐにいつもの調子へ戻ったが、グラスを口に運ぶ手は一拍遅れた。
「まぁ、そんな事ならお安い御用だ。また連絡するよ」
三日後。
再びVIPルーム。
琴乃はその三日間、仕事の合間も煙草の本数が増えた事に自分でも気づいていた。
「早かったわね」
「まぁ、これくらいはね」
努は分厚い封筒をテーブルへ置いた。
「それより、面白い事が分かった」
琴乃は煙草に火をつける。
「外泊相手?」
「そう」
努は資料を広げた。「奥川雅也。四十歳。元・灰羽組若頭補佐」
琴乃の指先が、わずかに止まった。
「……どこぞの若造かと思ってたけど」
煙を吐く。
「ヤクザとは随分きな臭い話ね」
「で、紫は何かさせられてるの?」
「今んとこ、そういう話は出てきてない。奥川自身も、今は堅気みたいな暮らししてる。本業は作家業?どうだかね」
山崎はグラスに口をつけると再び資料に視線を落とす。
「娘さんは、その家を頻繁に出入りしてるだけ」
「……年頃の娘が」
琴乃は目を細めた。
「元ヤクザの男の家に何ヶ月も外泊して、何もありませんでした、なんて与太話、誰が信じるのよ」
「そりゃまぁねぇ」
努は肩を竦める。
「ただ、ヤクザの方を調べてたらもっと面白い話が出てきた」
琴乃が視線を上げる。
努はロックグラスをゆっくり傾けた。
「あの男、昔の通り名がある」
「――"死なずの悪鬼"」




