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朝風呂と小豆洗い

挿絵(By みてみん)

まだ夜と朝の境目の時間。

旅館の廊下は、音ごと凍りついたように静かだった。

朝の温泉の開始時間すぐ、家風呂でも温泉でも一番風呂は気分がいい。

紫は暖簾の前で立ち止まる。

――誰もいないはずなのに。

中から、微かに水音がした。

「……」

首をかしげる。

「フライングで先入ってる人がいるのかな」

暖簾をくぐる。

脱衣所。

整然と並ぶ籠の中で、ひとつだけ、濡れている。

ぽたり、と水滴が落ちた。

誰か、いる?

いや、けど気配はない。

紫は軽く肩をすくめた。

「なんだろう」


浴場。

湯気が立ち込める。

「……先客、いたのかな」

軽く身体を流し、湯船に沈む。

じんわりと温かさが広がる。

「……ふぅ」

静がいない朝風呂。

それだけで価値がある。

「最高……」

目を閉じる。

静寂。

――いや。

「……ショキ」

小さな音。

「……ショキショキ……」

瞼が開く。

「……小豆研ぎましょか……」

しわがれた声が、湯気の中から這い出てくる。

「……人とって喰いましょか……ショキショキ……」

「……は?」

音は、

やけに近い。

視線をやる。

水風呂の縁に、

誰かいる。

背を丸め、何かを擦っている。

ショキショキ、と。

規則的に。

「……」

湯から上がる。

足音が、妙に響く。

近づく。

老人だった。

だが、その手が細い。

骨のように細い指が、水の中で、赤いものを擦っている。

――小豆。

だがほんの一瞬、

別のものに見えた。

「……」

一歩、詰める。

次の瞬間。

ドゴッ!!

無言で蹴りが叩き込まれる。

老人の身体がつんのめり、そのまま水風呂に沈む。

バシャッ!!

水が跳ねる。

「……おい」

腰に手を当てる。

「爺」

「ここ女湯だぞ」


水面が波打つ。

ゆっくりと、老人が浮かび上がる。

濡れた顔。目が、妙に濁っている。

「……儂を蹴った?」

ぽかんとした声。

「……というか」

首を傾げる。

「見えておるのか」

「当たり前だろ」

紫は眉をひそめる。

「……ってその反応、お前怪異か?」

老人は小さく笑う。

「今の若いもんは物を知らんのう」

指でつまみ上げる。水に濡れた小豆。ぽたり、と滴る。

「どう見ても小豆洗いじゃろうが」

「知らねぇよ」

間を置かず、続ける。

「女湯で洗うなよ」

「馬鹿を言え」

ぴしゃりと返す。

「男湯の水風呂で洗った小豆、食いたいか?」

「……それは嫌だけど」

「じゃろう?」

「いやそういう問題じゃなくて」

紫は顔をしかめる。

「そもそも水風呂で洗うなよ。ばっちぃな」

老人は得意げに笑う。

「ここの水は特別でな。これで洗うと、たいそう美味くなるのだ」

ぽたり。また、水が落ちる。

――ほんの一瞬、それが赤く見えた。

「……」

紫は視線を逸らす。


「それにしても」

老人がじっと見る。

「童にしては大きいのう。その歳なら男湯へ行かんと」

「――は?」

空気が冷える。

「誰が男だ」

「どう見ても女だろうが」

老人が目を凝らす。

じっと。

長く。

「……ほう」

紫は無言でタオルを巻き直す。

「……その体で女を名乗るのは」

「十年早いのう」

「……殴られたいの?」

声に、一切の温度がない。

老人は即座に手を上げる。

「重ねて失敬!」

そして、どこからともなく取り出す。

ぼた餅。

濡れている。明らかに、水に浸けた後のそれ。

「詫びだ。食え。ほっぺたが落ちるぞ」

「いらない」

即答。

「っていうかそれどこから出した」

「汚いなぁ」

老人は肩をすくめる。

「アンコウ然り、白子然り。美味いものは見た目が悪い」

「見た目じゃなくて衛生の話してるんだよ」

沈黙。

老人は、ふっと笑う。

「……細かいのう」

そのまま、湯気に溶けるように、輪郭が崩れていく。

消えた。

だが。

「……ショキ」

一瞬だけ、音だけが残った。


「……」

紫は立ち尽くす。

次の瞬間。

「……っくしゅん!」

肩を震わせる。

「……湯冷めした」

湯に戻ろうとする。

その時。

ガラリ。

戸が開く。

「あら」

聞き慣れた声。

「紫ちゃん、奇遇やね」

静が入ってくる。いつも通りの笑顔。

「……」

紫は天井を仰ぐ。

「お姉さんが身体洗ったげようか?」

「いらない」

「遠慮せんでもええのに」

「遠慮じゃない」

「ほな背中だけでも」

「いいってば」

「ほな――」

「しつこい」

「冷たい子やわぁ」

「……あーもう」

そのやり取りの間、

水風呂の水面が、一度だけ、不自然に波打った。


朝。

ロビーに、人の気配が戻っている。

紫はぼんやりと歩く。

売店の前で、足が止まる。

――名物 ぼた餅

透明なケースの中。整然と並んでいる。

「……」

一つだけ。

表面が濡れている。

ぽたり。水滴が落ちる。

思い出す。

あの音。あの手。

「……食べないけど」

小さく呟く。

顔を上げる。

ガラスに映る自分の背後に、

ほんの一瞬、

しゃがみ込んで何かを研ぐ影が見えた気がした。

「……っ」

振り返る。

誰もいない。

ロビーのざわめき。普通の朝。

「……気のせい、か」

そう言いながらも、足は少しだけ速くなる。

廊下を歩く。

ふと、足元を見る。

自分の足跡。

その後ろに、小さな濡れた足跡が、一つ、続いていた。

気づかないまま、紫は歩いていく。


朝の光が、やけに冷たく見えた。

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