枕返し談義
書斎。
薄暗い部屋に、煙草の煙だけが漂っている。
灰皿の中には、吸い殻が山になっていた。
奥川雅也は机に肘をつき、原稿用紙を見つめていた。
見つめるだけで、何も書かない。
――コンコン。
ノック。
「……入れや」
襖が開く。
紫が顔を出した。
Tシャツにホットパンツ。完全に部屋着のままだ。
「……寝れんのかい」
「うん」
あっさり頷く。
「眠くなるまでここにいていい?」
雅也は煙を吐いた。
「ちょうど煮詰まっとったとこや。好きにせえや」
煙草を灰皿に押しつける。
「やりぃ」
紫は嬉しそうに笑って、遠慮なく部屋に入り、床に座り込んだ。膝を抱える。
「で、今何書いてるの?」
「怪談や」
「いつものヤクザもんのコラムよりは、百倍マシな仕事やけどな」
「ヤクザとか幽霊とか」
紫は少し遠くを見るように言う。
「実際あったら普通に怖いのに、そういう話好きな人多いよね」
「何が面白いんだろ」
雅也は少しだけ笑った。
「ヤクザも幽霊もな、俺らには身近な現実の話や」
煙草に火をつける。
「せやけど普通の人間からしたら、遠いお伽話やねん」
煙を吐く。
「そんなもんがあったらおもろい。いわば対岸の火事や」
「ふーん」
紫は首を傾げる。
「呑気ってこと?」
「まぁ一般論やな。幽霊もヤクザも、一生関わらん人間の方が圧倒的に多い」
「……じゃあ私は?」
ぽつりと紫が言う。
「おかしい?」
一瞬だけ、間があいた。
雅也は煙草をくわえたまま、ちらりと紫を見た。
「おかしいわけやない」
「ただ、立っている位置が少し違うから見えてる景色が人ちょっと違って見える、それだけや」
視線を外す。
「そんな卑下するもんでもないわ」
紫は何も言わなかった。
しばらくして、口元を緩めた。
「……そっか」
それだけで、空気が少し柔らかくなった。
「とにかくや」
雅也は話を戻すように口を開いた。
「人は昔から、理解できんもんを妖怪のせいにしてきたんや」
「それこそな――朝起きたら枕が明後日の方向に飛んどるとか、そういうのも妖怪のせいにしとったんや」
「それって単に寝相悪いだけでしょ」
即答。
「せや。せやけどな、人はそれを"枕返し"いう妖怪のせいやと考えたわけや」
「なにそれ、バカみたいじゃん」
「せやろ。普通に考えたらそうはならん」
雅也は笑って、煙草を灰皿へ押しつけた。
「まぁ、説明のつかんことにはな、理由をつけたくなるもんなんや。人間てのは」
「……理由」
紫は小さく繰り返した。
何かを確かめるみたいに、静かに。
「布団持ってくるから、今日はここで寝るね」
「なんでやねん」
「眠なったんやったら自分の部屋で寝ろや」
「んー」
紫は少しだけ考える仕草をする。
「なんか、この部屋の方が落ち着くんだよね」
「……先生がいると」
雅也は何も言わなかった。
ただ、呆れたようにため息をついた。
「勝手にせえや」
「うん、勝手にする」
紫は軽い足取りで部屋を出ていく。
しばらくして、布団を抱えて戻ってきた。
書斎の隅に敷いて、そのままごろんと横になる。
「……先生」
「なんや」
「さっきの話さ。枕返し」
「ほんとにいるの?」
少しだけ沈黙。
雅也は煙草を取り出しかけて、やめた。
「……さあな」
「おるかもしれんし、おらんかもしれん。少なくとも俺は見たことないわ」
「そんくらいが丁度ええねん。妖怪なんてもんはな」
紫はしばらく黙っていた。
それから、小さな寝息に変わった。
雅也はちらりとそちらを見た。
布団の中で、紫は小さく丸くなっている。
小さく息を吐いて、再びキーボードに手を置く。
しばらくして、ぽつりと呟いた。
「……枕返し、な」
部屋に静寂が戻る。
煙草の煙だけがゆっくりと昇っていく。
――そのとき。
襖に紫の枕が叩きつけられる。どうやら紫が自分の枕を蹴ったらしい。なんちゅう寝相や。
「やっぱ、おらんかもなぁ。」
ただ静かに、新しい煙草に火をつけた。
書斎の隅で、紫の寝息は続いている。
穏やかに、深く。




