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夜更けの三味線

挿絵(By みてみん)

夜が、深い。

静まり返った家の中に、三味線の音だけが生きていた。

細く、澄んで、どこまでも冷たい。物悲しいのに心地よい——まるで真夜中の川面に月が映っているような音色だった。

紫は布団の中で目を開けた。

(……三味線?)

眠気を引きずったまま廊下を歩き、音のする居間の襖をそっと開ける。

灯りの下に、静がいた。

正座で三味線を抱え、うつむいた横顔が灯りに浮かんでいる。着物の袖がゆるやかに落ち、指先だけが弦の上を這う。その指が動くたびに、旋律が一粒ずつ夜に溶けていった。

紫は少し驚いたように言った。

「いたんだ」

静はちらりとこちらを見る。目が細まる。笑っているのか、品定めしているのか、よくわからない目だった。

「ちょいと片づけてたら遅なってもうてなぁ。今日は泊まろ思て」

「……そう」

紫は畳に腰を下ろした。胡坐をかいて、しばらく黙って音を聞く。

「綺麗な音だね」

「整理しとったら出てきたんや」

静は弦から目を離さない。

「懐かしい思て弾いてみたけど……あかんなぁ、すっかり鈍ってもうてる」

「そう? 結構いいと思ったけど」

「おおきに」

くすりと笑う。声が低くて、夜に馴染む。

そして——ふっと、指が止まった。

「せやけどな」

静が顔を上げた。

さっきまでとは、少しだけ声の質が違った。

「懐かしい思てつい弾いてもうたけど、ほんまは夜中にこないな三味線弾くんは、ようないねん」

「近所迷惑だから?」

「それもあるけどな」

静は弦を軽く、一本だけ鳴らした。低い音がじわりと広がって、空気の中に残る。

「夜中に楽器を弾くと——ようないもんを、寄せるて言うんや」

「良くないもの」

紫は繰り返した。

「耳なし芳一、知ってはる?」

「琵琶法師のやつ。平家の亡霊が寄ってきて、最後に耳だけもがれる」

「そうそう」

「私が芳一だったら、和尚殴ってるね」

静が目を丸くする。

「ごめんで済む話じゃないでしょ、あれ。」

静は吹き出した。こらえようとして、こらえきれなかった笑い方だった。

「そらそうや」

居間に少し、空気が和らぐ。

それから、また三味線を弾き始める。

旋律は変わらない。けれど今度は——さっきより、どこか低いところを流れているような気がした。

「せやからな」

静は言う。弦を見たまま。

「夜中に弾き慣れへん三味線なんか弾いとったら」

音が、低く揺れる。

「ようないもんを、呼び寄せることがある」

紫はその時、何気なく灯りを見た。

静の影が、畳に伸びていた。

(……あれ)

影の形が——おかしい。

ゆっくりと、じわりと、意思を持つように歪んでいく。輪郭が変わる。背が伸びる。肩が広がる。

兜。

篭手。

刀。

鎧武者の影が、畳の上に立ち上がった。

刀を振りかぶっている。静の背中へ——今にも、斬りかかろうとしている。

「静さん——」

紫が立ち上がりかけた、その瞬間。

静の影から、何かが噴き出した。

黒い。

細い。

刃のようなものが、何十本も——音もなく、鋭く、寸分の狂いもなく。

鎧武者の影を、貫いた。

ぐしゃり。

音がした気がした。影は形を失って、滲んで、溶けて——何事もなかったように、消えた。

静の影は、また静の形に戻っていた。

三味線の音が、また静かに流れ始める。

紫は畳に手をついたまま、しばらく動けなかった。

「……何、今の」

静は三味線を置いた。振り返る。にっこり笑う。

「座興どすえ」

間があった。

「…………」

「怖かった?」

静が首を傾げる。いたずらっぽく。少しだけ、楽しそうに。

立ち上がって、両腕を広げた。

「今日はお姉さんと一緒に寝る?」

「いい」

紫はさっさと立ち上がった。

「先生と寝る」

静の目が細まった。笑顔のまま、細まった。

「こら」

「何」

「ええ歳の女の子が、あないなおっさんと寝たらあきまへん」

紫は肩をすくめる。

「静さんだって、私いない時、先生と寝てるでしょ」

「……それとこれとは」

「同じでしょ」

「大人はええんどす」

静は手をひらりと振った。涼しい顔で言う。

「ああいうんは挨拶みたいなもんです」

「じゃあ私がしてもいいじゃん」

「あんたには10年早いわ」

その時。

襖が、すっと開いた。

雅也が立っていた。

着流しのまま、髪も乱れたまま、腕を組んでいる。不機嫌というより——疲れた顔をしていた。紫と静を順番に見て、それからため息をついた。

「……いらんこと言うとらんと、さっさと寝ろや。何時や思とんねん」

「先生」

紫は言った。

「静さんが、先生とのこと挨拶って言ってる」

「聞こえとる。お前、分かってて言うてるやろ」

雅也はあきれたように言うと、また襖を閉めた。

廊下に足音。遠ざかっていく。

静が、くすりと笑った。

「……気まずそうな顔」

「ちょっと意地悪だったかな」

紫は立ち上がった。伸びをしながら言う。

「先生は私が16歳だって事をたまに忘れるからなぁ」

「まぁそれは日頃の行いちゃいます」

「何か言いたげだね」

「別に……ほな、お姉さんのとこ来る?」

「いい」

廊下に出る。

「おやすみ、静さん」

「おやすみやす」

居間に、また三味線の音が戻った。

夜は、深く、静かに更けていく。

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