エメラルドの瞳
駅前のショーウィンドウに、その指輪はあった。
深い緑。
吸い込まれるようなエメラルドが、ガラス越しにこちらを見ている。
「……綺麗」
理由はない。けれど、胸の奥がざわつく。値札は高い。だが、払えない額ではない。
――欲しい。
衝動は、それだけだった。
その日の帰り、桃花は小さな箱を抱えていた。
放課後の雅也の家。
「見て、紫」
箱を開ける。蛍光灯の光を受け、深緑が静かに輝く。
「買ったの?」
「うん。どうしても欲しくなって」
指にはめる。ぴたりと収まる。まるで、最初からそこにあったかのように。
紫の表情が曇る。
「……それ、外せる?」
「え?」
「なんか、嫌な感じがする。桃花じゃないみたいで」
桃花は笑う。
「大丈夫だよ。ただの指輪――」
言い終わる前に、胸の奥がちくりと痛んだ。一瞬だけ、耳鳴り。視界の端に、誰かが立っている気がした。
振り向くが、誰もいない。
紫は書斎へ向かう。
「先生」
煙草の煙の向こうで、雅也が顔を上げる。
「桃花が、また変なもの持ってきた」
「……またか。お前らといると仕事が止まってしゃあないわ」
面倒くさそうに立ち上がる。
「煙草吸ってただけじゃん」
「構想を練っとたんや。うるさいぞ。いちいち」
リビング。桃花は指輪を撫でている。雅也の視線が落ちた瞬間、部屋の空気が変わる。
「お前はもうちょっと気ぃつけぇや。外せ、その指輪」
低い声。
「今すぐや」
桃花の胸が強く波打つ。指輪が、熱い。
「え……?」
外そうとする。だが、抜けない。皮膚に吸いつくように張りついている。焦りが広がる。
「ちが、う……外れ……」
視界が揺れ、足元が遠くなる。頭の奥に、誰かの声。
――渡すな。それは、お前のものだ。
「……これは、私のもの」
自分の声なのに、自分ではない。
紫が腕を掴む。
「桃花、外して!」
その瞬間、激しい拒絶が胸を貫く。奪われる。取られる。失う。嫌だ。
「触るな!」
振り払う。自分でも驚くほどの力。
「お前らに渡すものか!」
声が重なる。涙が滲む。怖い。なのに、指輪だけは離せない。
玄関へ駆け出す。
「桃花!」
夜風が吹き込む。外へ飛び出す。
次の瞬間、視界が闇に落ちた。
桃花は消えた。
家にも学校にも姿はない。雅也は煙草を灰皿に押しつけ、スマホを取り出した。
「神代、組長は、今。事務所か、分かった」
そう言うと立ち上がり玄関へと向かう。
「どうするの」
「組の人員を借りる。というか情報を集めるにも俺には組関係しか伝手がない。嫌やけど言うてられんやろ」
報告は夜半に届いた。
街外れの用水路。月明かりの下。
それは、いた。
上半身は桃花だった。乱れた髪、浅い呼吸。だが、腰から下は獣の四肢に変じていた。大きな猫科の動物を思わせる、しなやかで力強い脚。尾が水面をゆるやかに揺らしている。若さへの渇望が肉体そのものを塗り替えようとしているのだと、雅也には直感でわかった――術者が求めたのは老いた魂を宿す獣の躯、その器として桃花を選んだのだ。
瞳は、深い緑。
「……桃花」
ゆっくりと顔が上がる。指輪は指に埋まり、緑の筋が皮膚の下を走る。宝石が脈打っている。
「……取れん」
掴むが、動かない。肉と一体化している。
「奥川さん、助けて……どうして、どうして、こんな」
桃花の目から涙が溢れる。
「分かっとる。絶対助けたるから安心せえ」
そう言うと雅也は桃花の顔の目の前に手をかざす。桃花の意識が遠くへ飛ぶ。
「また暴れられたら敵わんからのう」
雅也は桃花を抱えると水路を後にする。
雅也の自宅。布団に寝かせられる桃花。傍らには心配そうに見つめる紫。相変わらずの不機嫌顔の雅也。そして桃花に処置を行う静。
「静さん、桃花は……」
「出来るだけの事はしました。進行は止まったけどやっぱし大元を断たへんことにはなんとも」
「やっぱり、本体を叩かな、あかんか」
雅也は立ち上がり、部屋を出ようとする。
「当てはあるん?」
「今、神代にやらせとる。もうちょい時間かかるそうやが大体、見当はついとるらしい」
「しようがあらへん事とは言え、因果やね」
雅也は何も言わず出ていく。
深夜。
病院前に車が停まる。廊下は静まり返り、機械音だけが響く。
病室。月明かりの中、ベッドの上に老婆。桃花の隣にずっと立っていた、あの顔。意識はなく、ただ機械に生かされている。
悪意か。執着か。未練か。
確かめる術はない。
雅也は銃を取り出す。引き金を引く前に、一瞬だけ止まった。それだけだった。
乾いた音が二度。静寂が闇に広がる。
男たちが入室する。雅也は振り返らず、病院を出た。夜風が冷たい。煙草に火をつけ、煙をゆっくり吐く。それきり、何も言わなかった。
翌朝。
薄い陽が差し込む和室。布団に横たわる桃花が、ゆっくり目を開ける。
「……あれ?」
身体は元に戻っている。指には、何もない。ただ、そこだけがひどく冷たい。
紫が駆け寄る。「桃花!」
「……紫?」
記憶は曖昧だ。夢を見ていた気がする。深い緑。誰かの声。胸を締めつける孤独。
「……ごめん、なんか、怖かった」
涙が滲む。紫が抱きしめる。
「もう大丈夫」と、それから小声で続けた。
「怖かったのはあたしも同じだよ。もう、変な物買わないでよ」
少し離れた場所で、雅也が煙草をくわえる。視線が合う。桃花は小さく笑った。
「……ありがとう、また迷惑かけちゃったみたい」
雅也は煙を一筋吐き、窓の外へ目をやった。
「次からは安物にしとけ。学生がエメラルドの指輪なんぞ、10年早いわ」
手厳しい言葉だ。だが今はその厳しい言葉もなんか嬉しく感じた。
朝日が、静かに差し込んでいた。




