夜更けのリビング
深夜。
リビングに灯るのは、間接照明ひとつ。
ローテーブルの上に置かれたグラスの中で、氷がゆっくりと溶けていく。琥珀色の液体が、わずかに揺れた。
雅也はボウモア18年を口に含む。
潮気を帯びた煙の香り。遅れてくる、凝縮した甘さ。
「……悪うない」
誰に言うでもなく、呟く。
セブンスターの灰を落とす。細い煙が、天井へ向かって真っ直ぐに昇っていく。
氷が、からん、と鳴った。
その時、階段が軋んだ。
「……先生?」
振り返ると、寝ぼけ眼の紫が立っていた。
「なんや、起きとったんか」
「それはこっちの台詞。まだ起きてたんだ」
「今、仕事が一段落したとこや。寝る前の一服や」
紫はゆっくりと近づき、向かいに腰を下ろす。グラスを、じっと見つめる。
「それって、おいしいの?」
「美味いから飲んどるんやろ」
「ふーん」
何の躊躇もなく、グラスを取る。
「あ、おい」
一口。
次の瞬間、顔をしかめた。
「……まずっ。にがっ、何これ、煙の味しかしない」
「それがええんや」
雅也はグラスを取り返す。
「煙の奥にある甘さがたまらんのや。まぁお前にはまだわからん世界やな」
「大人って舌バグってるの?」
「お前の舌がお子様なんや」
紫は頬を膨らませる。
「前に吸わせてもらった煙草も煙いだけだったし。こういうのが美味しく感じられたら、大人ってこと?」
雅也は少しだけ黙る。
煙を吐き出す。
「……こんなもんは大人の定義には入らん」
「じゃあ何が入るの」
グラスの氷が、静かに鳴る。
雅也は一瞬、紫を見た。
まだあどけなさの残る顔。だが、怪異と向き合うときの鋭さも知っている。
視線を落とす。
「こういうもんがないと生きられんのも、また大人なんかもしれへんな。ただ生きるだけでもなかなかしんどい。まぁ鎮痛剤やな」
紫は少しだけ黙る。
「私も、いつかこういうの美味しく感じる日が来るのかな」
「来んでええと思うけどな、正直。煙草も酒も人生ではなくても別に問題ないもんや。けど……」
「けど?」
「……なんでもない」
「なにそれ」
紫は立ち上がり、冷蔵庫を開けた。
シュッ、と炭酸の音。
コーラの缶を持って戻ってくる。
「じゃあ今はこれで我慢してよ」
自分の缶と雅也のグラスを、軽く当てた。
小さな乾杯の音。
「それはそれで、大人になっても変わらずうまいもんや」
「でしょ?」
紫が笑う。
ひと息ついたあと、雅也が言う。
「それ飲んだらさっさと寝ろや。子供はとっくに寝る時間やぞ」
紫はじっと見る。
「先生にとって、私は子供?」
「どっからどう見ても子供やろが。鏡見ぃ」
「わかんないよ? 5年後には先生もびっくりの美女になってるかも」
雅也は小さく笑う。
「ほう。それは楽しみやのう」
少し間を置いて。
「そうなったら――こんなリビングやのうて、もっと雰囲気のある店に誘わせてもらうわ」
紫の目が、少しだけ真剣になる。
「いいね。約束だよ、先生」
声は軽い。けれど、どこか確かめるようでもある。
雅也はグラスを見つめた。
琥珀色の液体が揺れる。
未来のことなど、誰にもわからない。
「……まぁ、それまで俺が無事に生きとったらの話やがのう」
紫は即座に言う。
「生きてるよ」
「いやいや、明日にでもどっかのチンピラに弾かれとるかもしれへんやろ」
「そんなことで先生は死なない」
真っ直ぐな目だった。
「絶対、生きてるよ」
雅也は鼻で笑う。
「むちゃくちゃ言いよる」
けれど、口元は少し緩んでいた。
紫は缶を傾ける。
炭酸が弾ける音。
窓の外は、静かな夜だった。
煙はゆっくりと天井へ溶けていく。まだ来ぬ未来のことを、誰も決めきれないまま。
夜は、更けていく。




